廣川麻子さんインタビュー

トリコ・Aの次回公演「私の家族」では、様々な方にこの作品を楽しんでいただきたいと思い、シアターアクセシビリティネットワークの廣川さんにご相談。

聴覚障害の方のための字幕を作成することになりました。今回はその字幕作成の打ち合わせを経て、廣川さんにインタビューを行いました。

  • 「私の家族」稽古見学

ーー先日は字幕の打ち合わせと稽古にお越しいただいてありがとうございました。

 廣川「はい、楽しい時間でした!」 

 ーー「私の家族」は、他人同士で作られた家族が、殺し合いに至るという事件をモチーフに創作した作品です。

先日は、初めて台本を目にした俳優たちの立ち稽古を見ていただいたのですが、いかがでしたでしょうか。

 

廣川「ホラー的な感じを受けました。会話が裏の意味を含まれている感じ。ハッキリ言わない、というのが。

俳優たちも先の展開が良くわからない状態ですよね?なので、どうなるのだろう、というのが全身から伝わってきました(笑)」 

 ーーなるほど。台本はまだ結末もわからない状態でしたから、俳優はインプロ的な立ち方をするしかなく、それがかえって面白かったのですね。

 

ーーそれにしても、ホラーですよね。

私はあえてジャンルでいうならミステリーのつもりで作っているのですが、第一稿はまさにホラーでした。

ようやく台本が描き終わり、全体としてはミステリーに近づいたのではないかと自負しております。

さて廣川さんは、ご自身も演劇をされておられるということをインターネットで知ったのですが、いろいろな芸術や仕事がある中で、

ご自身があえて演劇に親しまれてきたのはなぜだろうと思われますか?

廣川「言語を習得する教室で、再現遊びというメソッドがあったのです。

それで演劇的な要素を小さい時から持っていたという感じです。

小さい時から親しんできた「遊び」が「再現遊び」=演劇、で、それが一番楽しかったというのがあります。

そして聞こえない子供の劇団に入り、舞台に立って他人になるという体験が心地よかったんだと思います。

 中学3年のときに、レミゼラブル初演を前から2列目で観て、こんなにすごいんだ!と衝撃を受けたのが、本格的な舞台へのキッカケになりました」

 ーーその公演は、字幕や手話があったのですか?

 廣川「いいえ、全く何もなかったのです。

でも原作は読んでいましたし(もちろん子供向けのほうですが)

 歌がプログラムに載っていたので、それをあとで読みました。

 ちなみに英国で初めて舞台を観たのが、おなじ作品の手話通訳付き(英国の)でした。英国手話はわかりませんでしたが、やはりパワーを感じました。

2回目に観た時は英国手話がわかるようになったので、より感動が深まりました」

 ーー言葉の意味がわかって感動が強まる。その感覚の順序が私にとってはとても新鮮です。

  • メタコミュニケーション

 ーー私はこれまで、言外の意味や身体の仕草などをものすごく気にして生きてきた部分があります。

自分と相手の感情に寄り添おうとする、というのでしょうか。もちろん相手の感情なんて分かるわけがありませんから、想像でしかありません。で、それが過ぎて、人とのやり取りの際、言葉をよく聞いていないということが度々ありました。

言葉をよく聞いていないと、単純に仕事ができなくなります。具体的には待ち合わせができないし、場所を借りたり、みんなの予定を合わせたりという作業などに行き違いや間違いが頻発します(汗)。もちろん、台本にも、破綻が・・・。

これまでそういったことで方々に迷惑をかけまくってきました。

この能力を否定するわけではないのですが、メタだけに頼っていると、仕事ができなくなる。さらに言語能力を磨かなくなる。今更やっとそう気がついたので、最近は言葉の意味を聞き取ろうと、頑張って耳を傾けるようにしています。

 廣川さんは普段、お話をするときは、手話を使って意味を理解されておられると思うのですが、言外の、相手の感情、つまりメタな部分での発信の読み取りについて感じてらっしゃることはありますか?

 廣川「表情を読み取るというのは、私にもあるかもしれません。

 でも、実は手話という言語に出会う前は、山口さんと同じように、表情を読み取る感じが強かったです。

 手話を習得したのは大学生の時で、それまでは口の形を読み取って・・・という方法でした。

ですので、どうしても、表情やしぐさなどを読み取ろうとしてしまっていました。

 でも手話という方法や、手話通訳という方法に出会ってからは、それは気にしなくてもいいのだと割り切るようになりました」

 ーー手話というのは、私の完全に思い込みですが、幼い頃にみなさん習得されるものかと思っていました。そうではないのですね。

 廣川「今のろう学校では手話を導入しているので、小さい頃から手話を使っていますが。

 昔は手話を覚えると、話せなくなる!という間違った認識があったのですよ。

 今は手話を覚えることで、言語能力を身に付けることができるという考えになっています。

 手話を通して、日本語(書き言葉)を習得するという流れなので、今の子供達とはまた感覚が違うかもしれません。

 また、人によっては、たとえば親がろう者だったという場合だと手話を家庭で習得し、学校では声を、という場合もあります」

 ーーなるほど。「手話を覚えると話せなくなる」という感覚、わかります。分かるというのは、「言葉の意味を聞くと、本当に思ってることが見抜けなくなる」みたいな思い込みが私にもあったのです。

廣川「なるほど・・・!表情に敏感になるということも良く言われますね。

 でも、大抵は、思い込みだったりします。逆に、誤解されてトラブルになってしまう場合が多いように思います。

 やはり、言葉にして伝え合う必要があるなと思っています・・

 ろう者は、ストレート、と良く言われます」

 ーーですよね。私、まさに今そのことを痛感している時です。昔「思いやりが大事」という教育の弊害というのを本で読んだことがあって・・・

「思いやり」はもちろん大事なのだけど、それが本当に思いやりとして相手に機能するのかどうかということも問題ですし、

また「思いやり」を持っているのに、それを表情や行動や言葉で言い表せない人を排除することにもなるという。

 廣川「日本人は、ハッキリ言わない文化と言われますね・・・思いやり、というか忖度というか(笑)」

ーーそうですね。思いやりすぎると、それが思い込みや、被害妄想につながるんだなあと最近なんとなく思ってました。

 廣川「思いやりの、やり方って難しいですね。

視覚障害の方と最近お話しする機会が多いのですが、

 見えないので、黙っていたら伝わらない、ということが。良くわかります」

 ーーそうですよね。目が見えるものであっても、見たいものしか見ていない、という面もあって。本当にみんなが見ているものは、違っていて、感じていることも、違う。

だから、唯一、共通の「言語」で伝え合うしかないのですね。

 廣川「そうですね。いかに、広い視野で見ることができるか、が大事かなぁと」

 ーー私が今書いている台本も、まさに、家族の構成メンバーが、リーダーの思いを汲み取って行動していく話なんです。

 廣川「なるほど。面白そうですね!まさに日本人の最近のあり方というか」

ーー態度が悪かったら殴られるし、口でどれだけ忠誠を誓っても、それをリーダーが「本当にそう思っている」とみなさない限りは、殺されてしまいます。

 廣川「極端にいくとそうなりますね、ハブかれ、とか」

 ーーすべて、そのリーダーが、「どう感じたか」が正しい世界で、みんなそれを汲み取ろうとして必死になってがんじがらめになる。大なり小なり、起きていることですね。

 廣川「まさに。結局は、信じることができるか、ですよね。

 信頼関係があれば、言葉が足りなくても確認できますし、確認が大事だと。確認のためには信頼関係が必要ですし、ループですね・・・」

 ーーはい。他者を信頼するためには、まず自分を信頼している必要があって、私も修行中の身であります(汗)

 廣川「信頼関係をどう構築していくか?言語が違う人でも、それは成立するか?

 は、特に手話を使う人たちのテーマですね」

ーー言語が違う、というのはどういう意味ですか?

 廣川「私はたまたま、日本語を先に習得しているので

 こうして山口さんの文字で会話することができますが

 もし手話が第一言語という人にとっては、この方法は難しいです」

 ーーなるほど。第一言語が、手話か日本語か、ということがあるのですね。

 廣川「それをどう乗り越えるかが今後のテーマになるかと」

 ーー私の中で、手話と日本語はイコールでした。

 廣川「そのあたりも、一般の方々にはなかなかご理解いただけない部分ですよね(汗)」

 ーーでは、字幕を出しても、手話が第一言語の方には追いつけないと。

 廣川「そういうことになります」

 ーー 舞台の横での手話の方がよい方もおられるのですね。

 廣川「字幕は、難聴者のほうがニーズが高いです。手話通訳という方法は日本ではまだ発展途上ですね。

米内山陽子さんという方が取り組んでいますし、TA-netでも協力しています。来年、養成講座を開く計画を立てています」

  • 感動詞

ーー先日とある方のインタビュー原稿を文字起こしした時に、その方がものすごく感動詞を多用してらっしゃることに驚きました。

論理的な方で、話のつじつまなどはキリッと合うような人。でも、発語のほとんどは感動詞で、その実言ってることを要約したらとても短くなる。不思議な体験でした。

台本を書く時にも、最近この感動詞をどうやっていれていくかということが難しく楽しい作業なのですが、

先日聴覚障害の方のための字幕作成のお話を聞いた時に、意味のない言葉「あのー」とか「えーっと」を削るということも可能だ、と言われて、

確かに、意味だけを伝えたいならそうかもしれない、と思った反面、「あのー」が多い人と少ない人で、キャラクターに違いが出てくるんじゃないかとも思ったんです。

字幕作成のための知識としても聞いておきたいのですが、廣川さんにとって「あのー」とか「えーっと」とか「ていうか」とか、そういう意味のない言葉って、言語の中でどういうポジションにありますか?

もっと言うと、その「あのー」とか「そのー」とかって、話し言葉として、リズムを作り出している、その人がリラックスしたり喋りやすくなったり脳を整理したりするのに有効な手段だと思うんです。

でもそれが、ない、世界、というものはあるのか。「話し言葉」と「書き言葉」は綺麗に分けられるものでもないと思うのですが・・・

 廣川「感動詞は、キャラクターに関係する場合は、字幕として出す方法もあり、だと思います。

 基本的に言っている通り字幕に出しますが、間に合わない場合は削ることもありますし。

 そこはやはり全体のバランスや調整になるかと。

 もちろん、話し言葉を字幕として出すことが大前提ですね

 脚本にはすべての言葉に意味を持って出しているのだと理解していますので、

 もちろん、削ることはありえないですが、間に合わない場合、削る事になるかと。

 でも、たとえばユックリ話しているのでしたら、それは出したいですね。私個人的にはすべて出して欲しい派です」

 ーーなるほど。今、話していて気がついたのですが、もしかしたら「あの」とか「その」は、発語されてしまったメタなのかもしれません。心の動きというか。

 廣川「鑑賞者教育にも繋がる部分なのですが、人によっては、煩わしいと感じるかもしれません。

 先ほどおっしゃったように、リラックスしている状態ということを表現している、ということを知る機会になりますし」

 ーーなるほど。確かに、「あのー」「ていうか」「うーん」ばっかりのシーンを英語字幕で想像してみたら辛いです。私もそう思います。そう思うのに作家としては削らないでほしい。なぜだろう。

 廣川「聞こえない人はそういったところを知らないので。

 手話にも、実はそれに相当する部分があって、「手を無意味に動かす」。

 でも、それが聞こえる人の「あー」に相当する、ということを認識している人は少ないですね。

 なので、そのあたりも字幕でどこまで伝えるかという挑戦になるかと」

 ーーですね。それが体現されていれば、いらないのかもしれない。

 台本はできているので、そう伺って、字幕作成が楽しみになりました。

 廣川「演劇は文化を表現している、と思っているので、うまくできるといいですよね。字幕でもう一つの世界を表現ということになるかもしれませんね」

 ーーそうなんです。そこにすごく興味があります。私は行くことができないけれど、橋の、こちら側を作ることができて。

 廣川「手話通訳もそういう要素があるね、と言われたことがあります。

 ですので、聞こえる人にも楽しんでもらえる字幕になれば良いかもしれません。

 音声ガイドが、見える人にも面白い、と聞いているので」

 ーー脚本家のこだわりや、正しさや、そういうものに引っ張られるのではなくて、第三の世界、ですね。

 廣川「逆に、あらたな発見の機会になればと。もちろん、核となる部分は大事にして欲しいです。

 できるだけ、同じように伝えて欲しいと思っています。

 完全に100%同じようには難しいと理解していますので(ニュアンスとかトーンとか)

 どこまで工夫できるか、というところに字幕製作の醍醐味があるかと」

 ーー小説だったらそれが難なく可能で、演劇ではそうはいかない。そこが、演劇の面白さなのだと思います。見る人によって、受け止め方が違ってくる。

 小さな仕草をキャッチするかしないか、だけでも違いますもんね。

 廣川「そうですね。俳優がどう役を理解して表現するか、ですね。

そこがまた面白いところですよね」

 ーー視覚障害の方にも楽しんでいただける舞台の形も、今後探ってみたいです。

 廣川「ぜひ!いま、音声ガイドの取り組みも増えていますので」 

  • 障害を作り出す社会

ーー今、目に見える、はっきりとわかる障害だけではなく、心の障害や、障害とは言えないまでも、

生き方や倫理における知識や体験の不足など、人間にはそれぞれ様々に生きづらさを感じているということが、可視化される時代となってきました。

かくいう私も、様々な生きづらさを感じており、それを舞台化することでなんとか今日までやってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一昨年妊娠をして、10ヶ月妊婦をやり、その後ここまで1年半弱息子を育ててきて、

改めて、今の社会には、身体的にハンデのある人が芸術や文化を楽しむことはおろか、

バスにさえ満足に乗れない現状であることを知りました。

障害、とか、ハンデ、とかいう言語を使わざるをえないので私も使っていますが、それは「違い」でしかない。

誰も中心ではなく、皆それぞれ違って、それが集まっているのが人類なのだ、ということを、私も作品を通して伝えてゆきたいと思うのですが、

廣川さんは今後、アクセシビリティネットワークの活動や、ご自身の演劇活動を通して、どのようなことを伝えていきたいとお考えですか?

 廣川「伝えたい事は、まさにそれです(笑)」

ーーはい(笑)!

 廣川「違いを受け止めた上で、そこから、どう一緒に楽しんでいけるか?

 どちらかが我慢するのではなく

 お互いにどう折り合っていけるかを考えることが大事かなと。

 ハンデというか、障壁というか、社会モデルという言い方が今あたらしく出ているのですが、

 社会によって作り出された「障害」であるということで

 障害は社会によってなくすことができるのです、という考え方です。

 今までは医学モデルと言って、個人に障害がある、だから個人の努力で、という考え方が主流でした。

 でも、それでは成り立たなくなってきているのが現代社会だと思うのです。

 ということをみんなが認識して、じゃあ、どうしたらいいか?ということを社会全体の課題として考えていくようになる、そういうキッカケの一つが演劇かなと。思っています」

 ーー演劇がきっかけになればいいですね。私はこれまで、本当に自分中心で物事を考えてきたので、

社会の中で自分に大きな偏りを見つけるたびに、落ち込んできました。でも最近やっと、その偏りが普通なのだとわかって、ホッとしてるんです。

そうしたら、セリフが書けるようになりました。

次は、そうやって苦しんでいる方に届けたいのです。偏りは普通で、

お互いにそれを前提として共生していく社会を作っていけばいいんだよと。

 廣川「そういった違いを出して、知る、という機会が大事かと。

 何事も、知る、という機会がないことには始まらないですしね!

 うして対話ができることも、私には幸いです」

ーーそうですね。知るためには、行動せねばならず・・・

舞台芸術は観客が動いてくれないと共有できないので、なかなかハードルは高いのですが。

 廣川「確かに(笑)でも届けるためのツールが昔よりは増えてますね。SNSなど。

 うまく活用して、呼びかけていきたいとおもっています」 

 ーーそうですね。簡単に、誰でも発信できます。

  • おまけ(廣川さんの興味)

ーーでは最後に少しだけ、廣川さんに個人的に聞きたいことなのですが、

演劇の中で、どのパーツを担当されたことが多く、どのパートに興味がおありですか?

 廣川「最初は俳優としてのスタートでしたが、今は、仕事としては制作という部分に関心があります」 

 ーーおおおおお!(マジでビックリしました)

 廣川「なぜならば、やはり私は見るのが好きなんですね笑

 お客様に届けたいという気持ちが強いです。

 その延長で、アクセシビリティにも関心がありますし

 演じるには高度なスキルが必要ですし、訓練も必要ですし

 なかなかそこまで到達しないかなと。手話狂言だけは好きで続けていますが」

 ーーなるほど。今、演劇界では、制作部門の人的不足が深刻です(笑)

 廣川「そうですね・・・労働環境が・・・少しずつ変えていきたいですね!」

ーー労働環境。確かに(笑) そして良い作品はみんなに知らせたいけど、そうじゃないものが多い、とか、逆に言うと、観劇鑑賞リテラシーの問題もありますし、なかなか難しい分野なのですね。

少しずつ変えていけたら良いですね。今日は本当にありがとうございます。すごく、良い機会になりました。

 廣川「はい!こちらこそ!本当に良い機会でした。ありがとうございました」