したため「ディクテ」を観て

開始すぐに長い暗転。赤ちゃんがいるので、常々寝不足気味のせいか、急激な眠気に誘われる。そこから5分ほど、目を閉じたり開けたり。

俳優たちが大きな声を出したので、目覚める。

全てを見終わって、あらすじ、とか、言いたいこと、などについては(言いたいことがあるかどうかも含め)私は全くわからなかった。ただ、私はそういう「わからなさ」にはあまり苦手意識がないようだ。それよりも、演者の声、発語、身体などにとても興味が有る。要するに、メタなメッセージの取り扱い方に興味惹かれる。私がこの芝居に好感を持った大きな理由は、演出の和田さんがおそらく、この演者の身体と発語について「興味を持って演出をした」という点に尽きるのではないだろうか。(だからメタな視点で演出しない演出か、そこに興味のない作品については、全く興味が持てない)

前半の発語は、時折「地点」というカンパニーを彷彿とさせる耳に面白い発語。それらは誰かに向かって発せられるものというよりは、音として楽しむ、という感じ。この芝居は、演者と演者の間にしっかりとした受け答えを目的としたセリフが交わされることはついぞなかったように思うのだが、前半はこの発語に工夫がされていたせいか、「会話」が成り立ってなくても、楽しめる。(「会話」というのは言葉を媒介しないものも含めて、すべての「やりとり」のこと)。口を開けたまま、しゃべったり、避けたオブラートの隙間から人が見えたり、くわえた石を別の人が咥え直したり、そういう視覚的、聴覚的な面白さはたくさんあった。

ただ前半がそうだった分、後半にいくにつれて、発語のルールが各演者に任されているような状況になっていくと、このお芝居がそもそも、お芝居というよりは朗読になっていることに気づかされ、「ストーリー」があることに気づかされ、その筋を追おうとしてしまうことに気がついた。要するに、演者たちが「無意識に」あるいは「意識的に」発語の矛先を求めてしまっていたせいかと思う。それでもそれらは演出の指示がないので、仕方なく空中分解し、一向に「会話」が交わされない状況は変わらない。

また、特に後半にいくに従って、セリフのつっかえ、言い間違い、などが増えていくのも、おそらく演者たちがこのセリフを身体に落としきれていないせい、あるいは、「虚構」から逃れようというコンセプトの演出の盲点、「セリフを間違ってはいけないという虚構」に知らず知らず絡みとられているせいと感じた。

身体と発語に興味を持って演出すると、どうしても、演者の「人間」としての生理というものを考えざるをえなくなる。

例えば石ころのゴロゴロと転がった舞台で、素足で動き回るシーン。演者はここで、自分の大きく振りかぶった腕に体全体を引っ張られるという動きを繰り返しながら発語するのだが、彼女は無意識に、下に落ちている石を避けようとした足さばきをしている。しかし「石にづまづく」という虚構を演出されているため、避けながら、ある一つの石にはつまづく、という離れ業を成し遂げなくてはならない、しかし同時に発語もしているわけで、その混乱した指令に、本来コントロール下にあるはずの発語がぶれる。

あるいは、オブラートのような白い薄い膜を口で溶かしながら発語するオープニング。この後四人の演者はとあるタイミングで「ずっと息を止めていた」かのような、あるいは「全速力で100メートル走った」かのような息切れを起こすのだが、なぜ、「オブラートを口で溶かしていた」だけの身体が、そういう「息切れ」を起こすのか、そこの生理の無視、が気になった。

他の点で面白く、身体と発語について向き合おうとしているだけに、時折そういった「演者の生理を無視する」演出がされていたことには、少し、ハッとさせられた。ラスト、とうとう演者は「日常会話」てきな発語をするのだが、あの発語を客が受け入れるためには「こっちはこういうルールでいきますんで」という、オープニングでの決意表明のようなものを必要とするのではないか。この作品では、オープニングで逆の約束をしている。私たちは、日常会話を行いません。演者と演者はコミュニケーションをとるふりをしません。発語そのものの音を楽しんでください。という約束をしたように感じた私は、中盤からだんだんと空中分解する発語に戸惑い、ラストで少しだけ、恥ずかしくなった。

私が身近で観れてしまうチケット料金数千円のエンタメと呼ばれるものが苦手なのは、そこの「こういうルールでいきますんで」という自覚がない芝居が多いからだとこの時気がつく。それはまあ、エンタメに限らないことなんだけど。

ただ、改めて、私がこの芝居を見た後に、とても清々しい気持ちになった理由は、「身体と発語」というものに着目することが、私たちが小さな劇場、すなわち小劇場でできる有力な挑戦なのだ、ということを、和田さんが思っているように感じたせいだと思う。テレビの前で芸人のギャグに笑い転げているような、あるいは有名な俳優の出ている映画を見て感動して涙を流すような、そういう体験は、小劇場でなくてもできるわけで、小さな密室、真っ黒の、あるいは真っ黒を目指した怪しい空間で、何ができるかといえば、そもそもこの空間で芝居なんてものをしようと思った自分、が、それまでの人生で「メタメッセージ」に敏感に反応し、振り回され、苦しんできたせいではないのか。そこに着目しないでどうする。ということ。

演者の中では、飯坂美鶴妃さんが良かった。何はともあれ、セリフを完全にものにしていたということ。彼女は天性の俳優だと思う。彼女は「器」なのだ。だから和田さんの演出を、分からない部分も含めて、いっさいがっさい受け止めて、演技に還元していた。もしかしたら彼女は時に空っぽとしての苦悩を有するかもしれないけれど、やはり俳優としての才能のある人だと強く思った。もし演出に対して疑問を持ち、それが体に落ちにくいなとなった時は、それをとことん演出に突きつけて共に解決していかないといけない、そうしないと俳優としての力量を100パーセント出せない。そういう俳優の方がどうも、割合的に多いと思う。でも、それってとても難しいこと、日数的にも、関係的にも、なので、演者は疑問を持ったまま舞台に立ち、無意識にセリフを拒否するために、「間違う」のかなあ、と、勝手なことを思ったりした。

いずれにせよ、最終的にやはり、私は、したためを応援したいと思った。
それは、すなわち、私が創作者として刺激されたから、という理由が一番大きい。
こういう作品が、個人的には当然だが一番「観てよかった」と思う。
ただ、応援と言っても、お客さんを百人連れて行くような、あるいは10万円を寄付するような、具体的な応援ができない以上、こうやって感じたことを言葉にすることが、一つの応援になるのではないかと思ったのでした。

次回も観に行きたいと思う。

おしまい。

アトリエ劇研想像サポートカンパニー公演 したため#5
「ディクテ」
原作:テレサ・ハッキョン・チャ
翻訳:池内靖子
演出・構成:和田ながら
出演 飯坂美鶴妃 岸本昌也 七井悠(劇団飛び道具) 山口恵子(BRDG)

アトリエ劇研に於いて、2017年6月25日


写真は私の忘れた自転車の鍵を持って来させられた夫と息子。