悪童日記チラシのキャッチフレーズを考える徒然

2980円の生協の割れチョコを注文しそびれて切ない朝です。
朝起きたら締め切りが過ぎていました。

昨夜、数分迷った挙句、夫に聞いてから注文しようと思って、パソコンを閉じ眠りにつき、朝、笑顔で「いいよ!」と言われてやったー!と喜んだこのほんわかした時間がただただムダになりました。

まあ、大量のチョコを食べずに済んで良かったのですが。

さておもむろに本題に入ります。
双子のいう真実とは何か。
双子は、
「日記に真実しか書かない」
としています。

しんじつ
【真実】
《名・ダナ》
1.
うそや飾りのない、本当のこと。まこと。 「―を語る」
2.
《副詞的に》 本当に。まったく。 「―困った話だ」

実際、双子が言いたかったのは「事実しか書かない」だと思います。

事実は「実際にあった」と多くの人が認められる事柄、客観的に認められる事柄のこと
真実は人それぞれが考える本当のこと(事実)で、客観的なものではなく、主観的なもの

ただ、翻訳の堀茂樹さんが、その使い分けについて無知であったとは考えにくいので、おそらく双子的には「じじつ」としたかったものが、やはり彼らにとっての「しんじつ」であったのだ、という意味で、「しんじつ」と堀さんは書いたのだ、私は解釈しています。これこそが、私にとっての「しんじつ」なのですが。

さて、
この小説は、「双子に取っての事実」が「彼らにとっての真実に過ぎなかった」ということが非常に、非常に重要な点だと思います。ここをクローズアップせずしてどこをクローズアップするのか。

ですね。

さらに、彼らは生き延びることに貪欲です。
多少人を犠牲にしても生き延びます。
この点もこの小説の肝となるところです。
ただし、それは「本能的なもの」ではなくて「母がそう言ったから」だと私は解釈しています。

それほどに、
彼らにとっての母は絶大だったという意味で。

最後に、彼らの、弱者に対する視線は、いったいどこで養われたのだ、というぐらい、徹底して優しいものです。
私、こういうことって、ある程度誰かの態度からの学びがあって初めて、身につくものではないかなと思っているのです。

子は生まれた時、他者に対してまっさらなんじゃないかと思います。
自分と違う部分があっても、それを「差」として受け取らない。

(だって、うちの子、私のこと、大好きなのです。私ってどうなんだと自分でも首を傾げたくなるのですが、我が子はそんなことお構いなしで、私を愛おしく見つめてくれます)

ところがそこに社会や大人が「差別」を持ち込むことで、子たちは自分とは違うものを「下」とか「上」とか言ってジャッジしていくようになります。

だから親や社会が、自分と違うものを激しくランク付けするタイプであれば、子もそうやって他者を色付けするだろうし、

親や社会が身体的な差異や性的な差異や、現代で「障害」と呼ばれるものを持っている人たちのことを、「下」ではなく「自分とはただ違うだけ」と解釈し、またそのように生きていたら、子もまたそうやって、それまでのやり方に特に色をつけずに、やっていけると思うのです。

で、この双子にとって、その接し方を教えてくれたのは誰なんだろう。

おばあちゃんと言いたいところだけど、双子はおばあちゃんちに来てすぐ、隣の家の兎っ子とその母親を気にかけている。すでにそう言った心が育った状態で小さい町にやってきているのです。

社会は当然、差別まみれです。

となれば、母しかいないのではないか、と私は思いました。
あるいは父もそう言った分別のある人だったかもしれない。

そしておばあちゃんは当然、そういう人です。
おばあちゃんは、子供だからと言う理由で愛でたりはしませんが、ユダヤ人であるという理由だけで殺されゆく人々を命がけで救う人です。

そういうわけで、双子はとにかく、社会から取り残された弱者を徹底的に守ろうとします。
そしてそれを差別するものを、死をもって、制裁するのです。

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この3つをキャッチフレーズにするにはどうしたらよいでしょうか。
うーむうーむ。