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したため「ディクテ」を観て

開始すぐに長い暗転。赤ちゃんがいるので、常々寝不足気味のせいか、急激な眠気に誘われる。そこから5分ほど、目を閉じたり開けたり。

俳優たちが大きな声を出したので、目覚める。

全てを見終わって、あらすじ、とか、言いたいこと、などについては(言いたいことがあるかどうかも含め)私は全くわからなかった。ただ、私はそういう「わからなさ」にはあまり苦手意識がないようだ。それよりも、演者の声、発語、身体などにとても興味が有る。要するに、メタなメッセージの取り扱い方に興味惹かれる。私がこの芝居に好感を持った大きな理由は、演出の和田さんがおそらく、この演者の身体と発語について「興味を持って演出をした」という点に尽きるのではないだろうか。(だからメタな視点で演出しない演出か、そこに興味のない作品については、全く興味が持てない)

前半の発語は、時折「地点」というカンパニーを彷彿とさせる耳に面白い発語。それらは誰かに向かって発せられるものというよりは、音として楽しむ、という感じ。この芝居は、演者と演者の間にしっかりとした受け答えを目的としたセリフが交わされることはついぞなかったように思うのだが、前半はこの発語に工夫がされていたせいか、「会話」が成り立ってなくても、楽しめる。(「会話」というのは言葉を媒介しないものも含めて、すべての「やりとり」のこと)。口を開けたまま、しゃべったり、避けたオブラートの隙間から人が見えたり、くわえた石を別の人が咥え直したり、そういう視覚的、聴覚的な面白さはたくさんあった。

ただ前半がそうだった分、後半にいくにつれて、発語のルールが各演者に任されているような状況になっていくと、このお芝居がそもそも、お芝居というよりは朗読になっていることに気づかされ、「ストーリー」があることに気づかされ、その筋を追おうとしてしまうことに気がついた。要するに、演者たちが「無意識に」あるいは「意識的に」発語の矛先を求めてしまっていたせいかと思う。それでもそれらは演出の指示がないので、仕方なく空中分解し、一向に「会話」が交わされない状況は変わらない。

また、特に後半にいくに従って、セリフのつっかえ、言い間違い、などが増えていくのも、おそらく演者たちがこのセリフを身体に落としきれていないせい、あるいは、「虚構」から逃れようというコンセプトの演出の盲点、「セリフを間違ってはいけないという虚構」に知らず知らず絡みとられているせいと感じた。

身体と発語に興味を持って演出すると、どうしても、演者の「人間」としての生理というものを考えざるをえなくなる。

例えば石ころのゴロゴロと転がった舞台で、素足で動き回るシーン。演者はここで、自分の大きく振りかぶった腕に体全体を引っ張られるという動きを繰り返しながら発語するのだが、彼女は無意識に、下に落ちている石を避けようとした足さばきをしている。しかし「石にづまづく」という虚構を演出されているため、避けながら、ある一つの石にはつまづく、という離れ業を成し遂げなくてはならない、しかし同時に発語もしているわけで、その混乱した指令に、本来コントロール下にあるはずの発語がぶれる。

あるいは、オブラートのような白い薄い膜を口で溶かしながら発語するオープニング。この後四人の演者はとあるタイミングで「ずっと息を止めていた」かのような、あるいは「全速力で100メートル走った」かのような息切れを起こすのだが、なぜ、「オブラートを口で溶かしていた」だけの身体が、そういう「息切れ」を起こすのか、そこの生理の無視、が気になった。

他の点で面白く、身体と発語について向き合おうとしているだけに、時折そういった「演者の生理を無視する」演出がされていたことには、少し、ハッとさせられた。ラスト、とうとう演者は「日常会話」てきな発語をするのだが、あの発語を客が受け入れるためには「こっちはこういうルールでいきますんで」という、オープニングでの決意表明のようなものを必要とするのではないか。この作品では、オープニングで逆の約束をしている。私たちは、日常会話を行いません。演者と演者はコミュニケーションをとるふりをしません。発語そのものの音を楽しんでください。という約束をしたように感じた私は、中盤からだんだんと空中分解する発語に戸惑い、ラストで少しだけ、恥ずかしくなった。

私が身近で観れてしまうチケット料金数千円のエンタメと呼ばれるものが苦手なのは、そこの「こういうルールでいきますんで」という自覚がない芝居が多いからだとこの時気がつく。それはまあ、エンタメに限らないことなんだけど。

ただ、改めて、私がこの芝居を見た後に、とても清々しい気持ちになった理由は、「身体と発語」というものに着目することが、私たちが小さな劇場、すなわち小劇場でできる有力な挑戦なのだ、ということを、和田さんが思っているように感じたせいだと思う。テレビの前で芸人のギャグに笑い転げているような、あるいは有名な俳優の出ている映画を見て感動して涙を流すような、そういう体験は、小劇場でなくてもできるわけで、小さな密室、真っ黒の、あるいは真っ黒を目指した怪しい空間で、何ができるかといえば、そもそもこの空間で芝居なんてものをしようと思った自分、が、それまでの人生で「メタメッセージ」に敏感に反応し、振り回され、苦しんできたせいではないのか。そこに着目しないでどうする。ということ。

演者の中では、飯坂美鶴妃さんが良かった。何はともあれ、セリフを完全にものにしていたということ。彼女は天性の俳優だと思う。彼女は「器」なのだ。だから和田さんの演出を、分からない部分も含めて、いっさいがっさい受け止めて、演技に還元していた。もしかしたら彼女は時に空っぽとしての苦悩を有するかもしれないけれど、やはり俳優としての才能のある人だと強く思った。もし演出に対して疑問を持ち、それが体に落ちにくいなとなった時は、それをとことん演出に突きつけて共に解決していかないといけない、そうしないと俳優としての力量を100パーセント出せない。そういう俳優の方がどうも、割合的に多いと思う。でも、それってとても難しいこと、日数的にも、関係的にも、なので、演者は疑問を持ったまま舞台に立ち、無意識にセリフを拒否するために、「間違う」のかなあ、と、勝手なことを思ったりした。

いずれにせよ、最終的にやはり、私は、したためを応援したいと思った。
それは、すなわち、私が創作者として刺激されたから、という理由が一番大きい。
こういう作品が、個人的には当然だが一番「観てよかった」と思う。
ただ、応援と言っても、お客さんを百人連れて行くような、あるいは10万円を寄付するような、具体的な応援ができない以上、こうやって感じたことを言葉にすることが、一つの応援になるのではないかと思ったのでした。

次回も観に行きたいと思う。

おしまい。

アトリエ劇研想像サポートカンパニー公演 したため#5
「ディクテ」
原作:テレサ・ハッキョン・チャ
翻訳:池内靖子
演出・構成:和田ながら
出演 飯坂美鶴妃 岸本昌也 七井悠(劇団飛び道具) 山口恵子(BRDG)

アトリエ劇研に於いて、2017年6月25日


写真は私の忘れた自転車の鍵を持って来させられた夫と息子。

財産没収稽古2017.06.24

今日は、残りの2ページ(前回までは全7ページと書いていたのだが、やっていくうちにト書きが増え、8ページになりました)のセリフの割り振りを、暫定で決めるところから。初演でもそうだったが、ラスト周辺はだまし絵的にずらしたりせずともそのまま使えるセリフが多いので、サクサクっとセリフを割り振ることができる。これは再演の強みだと思った。

初演の後半の動画を見る。意外と動いていないことがわかる。つまりセリフを発しているだけのイメージ。もうすこし動きを入れていたと思っていたのだが、記憶違い。

それから実際に何度か、決めたセリフの割り振りでとおしてみる。ダンスをどう作るか、という話を恵美ちゃん発でしてくれる。やりたくないダンス、やりたいダンス。私が安易に「アメリカンなダンスを」というたばかりに、恵美ちゃんは言いにくそうに「こういうのは・・・したくないんです・・・」とブギウギダンスのようなものを真似してくれる。

確かにそれは違う。確かに違うのに、確かにそういうの思い浮かべてた(稽古場では言わなかったが)。

恵美ちゃんは、一つの一連の動きを作り、それを大きくしたり小さくしたりしながら随所で使ってはどうかと提案してくれる。

それで私からも、今舞台上で演者がやっている動きの「動詞」をピックアップしてみて、その動きをつなぎ合わせることで振り付けを作ってみてはどうかと提案した。

そこで高杉さんが、ダンスの話をしているのに、全然別のことを考えていた、と告白して、オープニングについての提案をしてくれた。

今、オープニングは初演と同じく、追いかけてきた恋人に気がついたテネシーが、自分で部屋の電気をつける、ということにしているのだが、それを、恋人につけてもらってはどうか、ということ。

私は、初演の時から、ここでテネシーが電気をつけることにずっと違和感を持っていた。暗いところで作業をしていた人が、他者がやってきたから電気をつけるって、そんな気遣い、するだろうか?創作に夢中になっているのに、いや、それより酔っ払っているのに!通常なら恋人が電気をつけて、テネシーの酔いを醒ますぐらいがいいはずなんだ。そう思ってた。

でも思っていたのに、言わなかったし、解決しようと思ってこなかった。だって、そのままでもなんとなくうまくいってたから。それに気がつく。演出として杜撰。

恋人が電気を付けることにすると、テネシーは転がっているトルソーの方に、恋人を避けて偶然近づくことができる。「この素敵な人形」というセリフ(初演では恵美ちゃんが言ってた)を、これまではまっちゃんが言ってた。でも、恋人が言うセリフとしてはずっと違和感があったので、とりあえず暫定かな、と保留にしていたのだ。それが、高杉さん、つまりテネシーのセリフになる。

そう、まさに、このセリフは、テネシーのセリフなのだ。

そうすると、その後に挿入するダンスについても、まっちゃんがなぜかトルソーと踊る、というようなことをしなくて良くなる。

このオープニングの改善案には、興奮した。興奮したと同時になぜこれを初演で私が思いつかなかったのか、と残念に思ったが(だってずっと違和感感じてたのに)、それもこれも、あらゆる様々な因果関係で偶然今、高杉さんの脳がピピっときたわけで、2年前の、2015年6月の稽古では、誰も、思いつく余地がなかったのだ。

ということにして、落ち込みもそこそこに、次へ。

恋人とテネシーが、「青い鳥」というカフェの裏のゴミ箱の近くで出会った、というイメージを、私たちは初演から共有している。そこで二人はなんとなく惹かれあい、恋人同士になった。それをどこかでやりたい、と高杉さんは切望しており、逆にこのイメージを提案した私には、どこにそんな隙があるのか、さっぱりイメージできなかった。

でもここで、そのシーンができそうということに、前回の稽古でなった。酔っ払いが三人で喋っているような、セリフの割り振り。今日はさらにそのセリフの割り振りを更新して、作ってみる。必要最小限の美術でやるので、ゴミ箱感、というのは出にくいのであるが、それでも、なんとなくわかるような感じに出来上がった。

稽古の最後に通しをしたかったので、その前にもう一度、ラストを通してみる。やってみたら、テネシーが、最後に、恋人に自分を襲わせる隙を作っているように見えて、これまた興奮(演出的に)。でも恋人はもう、去ってしまう。これって、まさに、テネシー・ウィリアムズ。というわけで、よりそういう風に見えるように、動きを微調整。

それから、先ほどの高杉氏のオープニング提案を実際にやってみて、通しをした。

ランタイムは35分だった。ダンスや間を作っていけば、予定通り40分程度になりそうだ。

通しが終わって最後の1時間、振り返る。5ページが丸ごと、「よく分からない」こと。
7ページで急にダンスをしだす意味、とか、

恵美ちゃんにどうやってローズ的要素を入れるか(ローズはテネシーの姉。恵美ちゃんは今、あくまでアルヴァ、という、主役のウィリーの姉でしかないのだが、できればローズ的な要素も入れたい)

恵美ちゃんはあくまで高杉さんの妄想上の人物であること。恋人とは違うということをお客さんに伝えたい、ということ。

など、諸々問題を共有して、6月の稽古を終了した。

 

財産没収稽古2017.06.23

この日は実に2時間のみの稽古。
前回の稽古が、じうのお熱で早退ということになったので、私抜きで3人が進めてくれたシーンについて、説明を受け、実際にやってみてもらった。

全部でA47ページあるこの戯曲。
現在、5ページ目を検討中だが、ここまでの流れを説明すると、

テネシーウィリアムズが、ふと、空き家に入る。酒瓶片手に、一室に侵入すると、そこには姉さんが座っている。テネシーは驚き、姉さんに触れようとすると、ふと消えてしまう。

テネシーはこの空き家の雰囲気と姉さんの幻影から、インスピレーションを得て、戯曲を書き始める。そこへ恋人が追いかけてくる。恋人は、テネシーを連れて帰りたいのだが、テネシーは戯曲を書くのに必死だ。時折セリフを口走りながら、妄想を文字で捉えようとしている。恋人はテネシーを襲い、テネシーは恋人を瓶で殴って気絶させる。

テネシーの紡ぎだす劇世界は、部屋に転がっていたトルソーや恋人をも利用してどんどん広がっていく。ふとテネシーは、幻影の姉をもう一度「見る」。テネシーはいよいよ劇世界へ没入する。

という感じまで進んでいる。

で、今日。

恵美ちゃんは、不動産を差し押さえに来た州の調査官。オープニングで高杉さんが見た「姉さんの幻影」は、実はこの調査官で、彼女はテネシーとは違う時間軸で、その家を差し押さえに来ている。時間軸が違うので、テネシーにとって彼女は幻影だし、彼女からしても、テネシーには一切気がついていない、という状況。

という前置きを経て、
高杉さんたちは、私が休んだ間に、

*物音に気がついて、恋人と息をひそめる。

*調査官がやってきたようだ。

*鑑定士が懐中電灯で辺りを照らしながら家の中を歩いている、テネシーたちは、彼女に気付かれぬようこそこそとしゃべる

というシーンをこの5ページを使って、作ってくれていた。

初めてそのシーンを説明してもらった時、私はパニックになった。
なぜなら、そのシーンを、本来のストーリーに基づいたセリフを使って表すからだ。

本来のストーリーでもそこの部分は調査官について語っているので、そういう意味ではやりやすいのだが、やはり合わないセリフは歴然とそこにある。それを無理なく使うためには、

調査官だった恵美ちゃんが、アルヴァになったり、
テネシーだった高杉さんが、ウィリーになったり、

するのである。
何の前触れもなく。

その「役が重なり合っている」ということを、お客さんに伝える努力を放棄し、イメージだけで「整理した気分」になり、乗り越えようとすると、破綻するのはわかっていて、

でもどうしてもイメージだけで進むしかないシーンもあって(なんせセリフが変えられないので)

この「だまし絵を劇化する」という作業の難しさを改めて痛感した。

それでも何とか5ページを終え、6月最後の稽古になるこの週末で、最後の6、7ページを仕上げることを決意して、私たちは別れた。

財産没収稽古2017.06.17

4ページの、ダンスのシーンが保留になっていたので、そこをまず暫定でも作ってから次に進むことになった。

まっちゃんとトルソー
高杉さんと恵美ちゃん

どうやって入れ替わるかという問題にぶつかる。部屋の真ん中には、調査官によって仕切られた赤い線がある。この線を越えること、超え方などの問題。ここでは、この線を一旦外して踊るということに決まる。そろそろ、この線が何なのか、何色で、どういう風に貼られているのか、を考える必要性。

そして、ダンスのシーンをとりあえずシンプルに作り上げ、先に進むことにした。

この日には「まっちゃんが高杉さんを襲い、抵抗するので瓶で殴って犯す」としていたシーンを、やはり初演と同じに戻そうという話になった。まず、「犯される」というシーンを作る困難さと、そこまでして犯した人と犯された人がそのあとどういうモチベーションでそこにいるのかという難しさが相まって、だ。

財産没収稽古2017.06.14

まず最初に、ここまで作ったシーンの通し。
その通しで、「恵美ちゃんの座るタイミング」を再考し、高杉さんがトルソーを立てると恵美ちゃんも座る、というふうに決める。

次に、「この財産を没収す」というセリフを、3人ではなく、高杉さんと恵美ちゃんでいうことにする。この時の二人は、テネシーとその姉、という関係だ。二人でこのセリフを発することで、いよいよこのヘンテコな世界がスタートする、というイメージ。

これまでテネシーに対して、妄想を嘲笑っていた恋人のまっちゃんも、この辺りから、テネシーの劇世界を共有しようと歩み寄ってくる。しかし、そういうことにするためには、一旦自分の欲望を満たすためにテネシーを殴って襲いかかった、という過去をやや持て余す現実。

ここで高杉さんから、演技する上で、誰の声を聞いて、誰の声を聞かないか、ということの整理を重要さが告げられる。確かに。私は勝手に、解釈しているが、演じる側がそれを明確に持っていると、見た目や舞台上の空気も変わってくる、ということ。

それから、初演では「テネシーのインタビュー」としていたシーンを、改めて作り直した。

ここまで、あくまでテネシーの妄想内に現れていた姉としての恵美ちゃんが、ノンコントロールになってこの場から逃げ出してしまったりする面白さ。あるいはまっちゃんが恵美ちゃんにのしかかり、恵美ちゃんが逃げる、という初演の構図を、逆にしてみるという可能性。色々と脱線したりしながら話し合った。

この日は4ページを主に作った。

喫茶店とつぐむ

八尾プリズムホールへの「つぐむ」という本を書きました。まだ第一稿なので荒いのですが、書いた後の感じと、

あと、先日「私の家族」の戯曲執筆のためのミーティングwith山納さんを開催させていただいて、思うところがいっぱいあったので、

その両方からの徒然を。

私は台本を書くとき、ある程度の速度を持って書かないと掴めない、というような感じを持っていて、その速度を落とさないように一気に書いてしまう。ただ、この20年で物事を少しずつ論理的に考えられるようになって、その分、速度を落とすようになった。

でも、今回はその速度が、まだまだ早いような気がした。

そして、書いている時、手触りを死守しようとするとどうしても、フィクションに行けなかったんだけど、もしかすると速度を落とせば行けるのかも、と感じた。

急に村上春樹の「壁抜け」を思い出した。15年ほど前だろうか。春樹さんのすべての著書を読んだ後に、「壁抜け」を分かったつもりになっていた。でも、今に成って、まだ、実感があるわけではないのだけど、「壁抜け」とはそういうことかもしれない、と思い始めている。全然違うかもしれない。

春樹さんは、走るぐらいの速度がちょうどいい、というけれど、そこはまだ、私にはわからない。憧れて何度、走ったことか。その度に、挫折している。井戸の底に座ったことはない。当たり前か。(ちなみに中身は絶対に真似できないので、私はただの、村上春樹ファンなのですが)

戯曲で、手触りのあるものを書く、ということを死守しながら、しかし、現実では起こりえない(と思っていること)にアクセスしてみたい。

「私の家族」で、それをしたいと思った。

先日ふと、自分の感情の論理性のなさが、急に「見えた」。その時に、私、前より論理的思考が鍛えられたかも、と思った。そしてこれが執筆に生かせるような気がした。

戯曲の構成は非常に重要だ。構成こそが命かもしれない。
そして構成には、論理的な思考が必要だ。
しかし、感情とは、破綻しているものだ。
全く、論理的でない。
だからそこに論理を持ち込んではいけない。
戯曲とは、論理的に組まれた構成という骨組みの上に、この破綻した感情を立ち上げるということなんだろう。引き裂かれている。

閑話休題。

財産没収の稽古をしていると、この戯曲が、壁抜けの可能性を孕みながら、その実「絵画的」になっていることを感じる。「欲望という名の電車」や「ガラスの動物園」では明らかに抜けていた壁が、「財産没収」では歴然と立ちはだかっている。短編なので当然といえば当然なのだが、それを、サファリでは、「演出で壁抜けする」というようなことをしていると思った。

「演出で壁抜けする」

チラシに書いてしまいたいほどのキャッチフレーズだが、壁抜けって、たぶん春樹ファンないとわからないので書けない。

ずっとハッタリに支えられたプライドで生きてきたんだな、と最近つくづく思う。

少しずつハッタリを手放していけている感じがする。

財産没収稽古2017.06.13

今日は昨日まで仕上がった1ページ半の通しから。刷新したセリフの割り振りで、ある程度ざっくりと決めた動きを確認します。

通して見て、大きく二つ、改善点。一つは、恵美ちゃんが何のタイミングでダンスをやめて椅子に座るのか、ということ。オープニングそうそう、恵美ちゃんが踊ることにしているのですが、その踊りの終わりで、すぐに椅子に座りたい、と思っていたのです。しかし、踊る場所から椅子の距離は少しあり、さらにダンスが終わっても椅子の上には高杉氏がしばらくおります。空白の時間ができてしまうのですが、一旦はけるということになると、再び登場するタイミングや意味もまた見つけなくてはならず・・・

暫定で、踊り終わったら、そこに倒れ、高杉さんに起こされて椅子に座る、という動きをつけました。

そして、まっちゃんが高杉さんをおそう問題。
おそうとは言ったものの、最初から暴力的に行くわけではなく、最初は徐々に、恋人らしく、キスをしようとしたり、何なら自分の方を向いてほしいと顔に手をあてたりするようなところから、体を押し倒して瓶で頭を殴るところまで、を少し具体的に決めて行きました。

椿姫のオペラの音楽を流してやってみたのですが、それで即興的に踊ってもらうと、意外とダンスのようでもあったので、少し具体的な動きというよりはダンスに寄せてみます。

休憩後は、まだ手をつけていないところの、セリフの割り振りから。

ここでとてもとても大きな問題にぶち当たります。劇中で「私たち、あの大きな黄色い家で、普通の暮らしをしていたのよ」というセリフが出てくるのです。これのどこが問題かというと、

すなわち、ここがどこなのか、を定義してしまうセリフなのです。

本来の戯曲では、ここは「線路の上」、外です。そしてこの線路の上から、遠くに、ウィリーの住んでいた、差し押さえにあった黄色い家が見えています。それをさして「あの」と言っているわけです。

しかし私たちは、今演者たちのいる場所を「差し押さえられた家」としています。誰の家かわからないが、行政に差し押さえられた家に、フラッと酔っ払ったテネシーが入り込み、そこで劇を創作する、という設定なのです。

であるにもかかわらず「あの」と遠くをさして、差し押さえられた黄色い家の話をするのは、かなり、無理が出てきます。ちなみにこの部分、初演でどうしていたかというと、「大きな声で叫ぶ」ことで、ごまかしていました。

ということを思い出し、4人で大笑いであります。
黄色い家問題は2年前もおそらく、はっきりあったのです。
しかしそれを、声の強弱で、切り抜けようとしたのでした。

いや、正直言うと、比較的全てのシーンをそんな感じで、感覚的に、声の強弱やリズムなどで構成してました。それがとても効果的に見える部分もあったし、もう少し練った方が良かったと思うところも、今回の稽古でたくさん見つかります。

パニックだ、と言いながら、パニックという英語の発音をネットで調べたりしながら(⬅︎現実逃避)、いろいろ話し合うこと数十分。ふと、普通ならこのセリフって、ここまでのセリフのやり取りに呼応していないよな、と気がつきます。

アルヴァ今、お墓の中なの、とウィリーが言うと、大変だね、とトムが返事します。しかしウィリーは、何よ、半分もわかってないくせに、と毒づき、上記のセリフを発するのです。

普通なら「何よ、半分もわかっちゃいないくせに!私、あの黄色い家で、アルヴァの最期を看取ったのよ!」とか言うはずです。なのに、あの家で「普通の暮らしをしていた」ということを主張するわけです。

この齟齬を指摘したところ、高杉さんが、「それや!」と言いました。つまり、ウィリーは、姉のアルヴァの綺麗なところばかり言っているけれど、アルヴァからすれば、それはいいところばかりの説明に聞こえる。私は、普通に、暮らしていた。トイレも行くし、お腹も空く。というような主張にしてみてはどうかとなったのです。

そうすれば、このセリフは、姉のアルヴァからウィリーへのセリフとしておさまり、この後の思い出話にスムーズに移行できることがわかりました。

その続きは、割とスムーズに割り振りが進みました。「この財産を没収す」と、この場所にかけられた札を見ていえば、ここが差し押さえにあった場所であることがわかる。

とにかく、この人は誰なのか。
ここはどこなのか。
どういう設定なのか、ということを明示できるところまで、進みました。

財産没収稽古2017.0611

恵美ちゃんが百均で買ってきてくれたテープで、舞台作りからスタートです。

今日は稽古開始から、セリフの割り振りを確認しました。
前回8割がた決めたのですが、まだ曖昧にしていたところがありました。
それを精査すべく、頭からセリフを読んでいきます。

途中で、少年少女が、自己紹介をするくだり。
立ち止まります。
自己紹介をするということはつまり、この人が誰であるかを劇の中で定義するということ。

そこをクリアするために、改めて、今回の三人の演者は誰なのか、をはっきり決める必要に迫られます。

初演では、

高杉さん→テネシー・ウィリアムズ、ウィリー
まっちゃん→テネシーの恋人、トム
恵美ちゃん→ウィリー、アルヴァ、不動産を差し押さえる州の行政官

という割り振りでやりました。これ、2年前はとても良いわけ方だと思っていたのですが、今回改めてそれぞれの役所と共通点などを吟味してみると、アラがいっぱい!それで、以下のように更新しました。

高杉さん→テネシー・ウィリアムズ、トム、ウィリー
まっちゃん→テネシーの恋人(=腐ったバナナ)
恵美ちゃん→姉、アルヴァ(=ボロ人形)、不動産をさしおさえる州の行政官

トム、というのはテネシーの事で、ウィリー、というのは、ウィリアムズの事。
つまりこの「財産没収」という戯曲は、まさに、テネシー・ウィリアムズの内面の対話、という風に解釈できるのですが、そうだとした場合に、初演の時の割り振りには齟齬がありました。

しかし改めて割り振りを決めたことで、かなりスッキリします。

これに従い、自己紹介も、高杉さんのアイディアですが、テネシーが「トム」と恋人に呼ばれながら、自らのことを「ウィリー」と名乗る、ということにすると、とても見やすくなりました。(初演では、テネシーが恋人を「トム」と呼び止め、なおかつ、自分のことを「ウィリー」と自己紹介していたのです)

この後、トムとウィリーが、お互いに「どうして学校に行かないの?」と聴きあうシーンが出てくるのですが、両方高杉氏が担う以上、この質問に高杉氏が2回答えることになります。しかし、連続で答えると意味がわかりません。

そもそも、初演でもこの2回の質問の合間に、テネシーが恋人に無理やり犯されそうになる、というシーンを挿入していましたので、これを引き続き採用することによって、2回連続の質問のおかしさを回避し、さらに意味を持たせることができそうです。

さて、このシーン、恋人がテネシーを襲うシーン。初演では、恵美ちゃんが「姉」として登場して、転がっていたお酒の瓶で恋人役のまっちゃんを殴り、かろうじて未遂に終わらせる、という風にしていたのですが、

逆に、犯されまいと逃げるテネシーを、恋人が瓶で殴り、犯してしまう、という風に踏み込んでみることにしました。その提案をしてみると、実際に、それが最も有用な解に思えてきます。

前回、恋人の強姦を未遂に終わらせたのは、どこかに、そういうものを見たくない、という私の極私的な感覚が反映されていたのかもと思いました。しかしテネシー・ウィリアムを扱う以上、私が見たいか見たくないか、ということはほとんど関係がなく、どちらが彼の劇世界にとって有用かということが重要になってきます。

どうも、悪童日記を経て、そのあたり、収まりの良い答えに安住せずあえて嫌なところに踏み込んでいくことで核心に迫ることができたりする、という経験が生き始めたようです。

ただ、実際にそれをやるとなると、とてもとても難しいお題です。
決して、生々しいものを見せたいわけではありません。
解釈はそうだけれども、そうだということが伝わるなら別の方法で見せたい。
ここは時間がかかりそうなので、とりあえず、暫定の動きを決めます。

恵美ちゃんやまっちゃんに、あえて、全然違う動きを提案してもらいます。
なかなかに難しい道のりです。

そして休憩。

男性陣がタバコに行った間、私と恵美ちゃんで、おにぎりを食べながら、恵美ちゃんが誰なのか、という話をします。

というのも、姉という役割だけなら筋が通っているのですが、彼女は、この家を差し押さえる行政官の役割も果たしているのです。この行政官、本来はウィリーのセリフの中に出てくるだけの存在。

一瞬、恵美ちゃんが姉だけをやった方が混乱がなくて良いように感じます。
でも、彼女が行政官をやることで、とても効果的な芝居に仕上がっているのも確か。

少し考え、彼女が不動産を差し押さえる州の行政官であるということ、それが、はっきりと観客に明確に伝われば、そのあと、彼女が「姉」におさまっても、「両方兼ねている」という解釈をすることができるのでアリだろう、という結論に至ります。

初演では、彼女の行政官としてのアクション、具体的には、この家にテープを張り巡らせて、ここを差し押さえる、というアクションの、リアリティについて、あまり議論し尽くしてなかったように思います。本来、家を差し押さえる時は、家の中にテープをバッテンに貼ったりしないからです。

でもそれは、抽象的な意味で、そうしているのであればオッケーです。
改めて、テープの色、それが抽象的なアクションであること、どのように貼るか、などを相談し、それに応じて、美術のことも少し相談しました。

そして、中央奥に扉を仮に置くことにしました。

実際に、奥に扉、斜めに一本、高さをとってテープを貼り、その状態で2ページ、通しました。

高杉氏と話す中で、「コンセプト」と「物語を起動させるための仕掛け」の違いを、体感としてつかめるようになってきました。これが、すごく、すごく面白いです。こう言う脳内の感覚を言葉で定義していくトレーニング、40歳にして遅いかもしれないけど、させてもらえて、感謝しかありません。

終わりに、詩恵ちゃんとスクが来て、気持ちがふわっと緩みました。