財産没収稽古2017.7.17

この日はすくとじうが稽古場に。稽古は昼間に行っているのですが、祝日は保育所が休みのため、どうしても一緒に来ざるをえません。

さて、この日は4ページの稽古です。私がこのシーンで気になっていたことは、母が駆け落ちしていなくなったこと、父が失踪したこと、姉が病死したこと、そしてまだ10歳そこそこの女の子が差し押さえられた家にこっそり住んでいるというこの悲惨さが、セリフからどうも浮かび上がって来ないということ。

このセリフをしっかりと届けるために、セリフの割り振りを考え直します。

また、恋人がなぜ、テネシーが劇作に夢中になり、一緒にいる意味がなくなったとわかった時点でしつこくここに居続けようとするのか、という点を解消するべく、ここで一旦、出て行こうとしてもらうことになりました。出て行こうとするが「沈みかけた船からネズミが逃げ出すみたい」と言われ、立ち止まります。恋人にも、いよいよ、動きや感情に流れが出てきます。

財産没収稽古2017.11.16

この日は、造形大の里井さんと、大学院でテネシー・ウィリアムズを研究していた朴さんが見学に来られました。

3ページを重点的に作ります。

ウィリーとアルヴァがお互いに学校に行かない理由を告白し合っているセリフを、トムとアルヴァ(あるいはローズ)の会話に変更。

また、この前のシーンで、トムを恋人が襲おうとし、それをアルヴァが瓶で殴って止める、という風にしていたのですが、どうもこれがうまくいかなくなってきました。すごく惹かれている相手。恋する相手が殴られているのを、テネシーはどう受け止めれば良いのか、そして姉がそこまで強権的な態度をとるのはなぜか。

本当は、セックスをして仕舞えば良いという話になったのですが、そこはあえて、襲わない、という風に落ち着きました。二人は結局、関係を持たない、という前向きな選択です。

その後ウィリーのお姉さんがいかにモテていたか、という話を必死にするのですが、初演ではテネシーが一人でやっているということにしていたのを、今回は、ウィリーが夢見がちに語っていると、アルヴァが現実的なコトを言う、そしてテネシーがそれにハッとする、という風に変えました。

自分たちだけがわかっているコトは極力排除して行き、わかりやすくしていく。けれども、テネシー・ウィリアムズの世界であることを忘れない。ということで今のところ何とか、成立しています。

終わりに、朴さんが、トークセッションのことについて色々と意見を言ってくれました。

財産没収稽古2017.07.15

13日の稽古は、山口がお休みだったため、出演者3人でやっていただいたことをまず、聞き取ります。お三方は、オープニングにあるトルソーと踊るシーンを作ってくれていました。それを踏まえて、火曜日に話し合ったことを、実際動きに反映させていきます。

二人がセックスをするためにこの小屋にやってきた、という前提にしたのですが、二人がじゃれあって、この小屋にやってくる、という最初の「イメージ」がとても恥ずかしいと私が伝えます。つまり「演技をする」ということに対する恥ずかしさでしょうか。これを、押し殺さずに机の上に並べて議論したい、と考えました。例えば、高杉氏は長いこと俳優をやっているので、最初にその恥ずかしさを押し殺して演技をしても、本番になるとそれを成立させる力があります。でも、まっちゃんや恵美ちゃんにはそれがありません。そしてこの一ヶ月でそれを習得できるとも考えられない。

ならば、俳優なら、恥ずかしいなんていうんじゃない、という感じでそれっぽい演技を強要するのではなく、その恥ずかしさを克服できる動きとモチベーションを、細かく指示していけないか。ということを提案します。具体的には「出てきて服を脱ぐ」とか「カバンと瓶を取り上げて椅子の上に置く」とか「5秒見つめて近づく」とかそういうことをお願いし、それ以外のことはしなくてよいことにします。

筋を通していくと、またセリフの割り振りが変わっていきます。この部屋の電気をつける理由は何か。セックスをしたいならつけないほうがいい。そもそも知らない人の家に忍び込んでるんだからつけるわけがない。それを乗り越えて電気をつける理由は何か。

それから、小道具が実際にないと意味が伝わらないセリフ、に関しても精査してゆきます。この台本にはそういうのが結構多いのです。しかし台本の指示通り小道具を用意してしまうとだまし絵的な役の組み替えに差し障りがあるので、ほとんど別のものに置き換えている手前、意味が通じにくいセリフがたくさんあります。それをなんとなく言わずに、しっかりわかるように置き換えていく作業です。

最後に出来たところまで通しをしましたが、オープニングに何度もあった「森に分け入る」感が1回になってきました。私は細かいところばかり見て前に進めない性格なので、高杉氏が演出助手の下野くんと共に、通しの日を設定することを提案してくれます。そうそう。通しをせねばいけません。一週間後に設定し、それまでに最後まで作ることになりました。

この日は美術の夏目氏が美術の素材となるものを持ってきてくださいました。

稽古、楽しいです。子供の頃に兄弟といとこ5人で毎日遊んでた楽しさを思い出す日々です。

財産没収稽古2017.7.12

下野くんが、手作りクーラーと扇風機を持ってきてくれました。外の暑さも少しマシだったので、部屋の中がいい感じに。本当に、助かります。

今日の稽古では、前半「発語」のことを中心に話し合いました。今回の座組は同じ訓練を何年も続けてきたメンバーがいるわけではないので、身体能力と同じように、発語の能力も全然違います。特にえみちゃんは普段、言葉を発するパフォーマンスをしていないこともあって、まず彼女の発語について、いろいろとアプローチします。

もしかすると、彼女の引っかかっていること、あるいは彼女の発語そのものに、宝が隠れていることもあるので、話し合いながら進めます。今、他人に聞こえているイメージを伝え、どこまで彼女が自由自在にその発語を変化させることができるのか可動域の確認をし、実際にヴォイストレーニングを一つだけやってみてもらって、声を喉で出さずに丹田を使って出すということを感じてもらいました。

高杉さんがえみちゃんの真似をしたり、えみちゃんが高杉さんの真似をしたり、まっちゃんがそこに入ったり、いろいろ試しているうちに、「名詞だけは恵美ちゃんの喋り方で」「それ以外は名詞より早いテンポで」喋るという方法にトライしてもらいます。

それから実際に立ってセリフを発してみると、当然のごとく声が出てこなかったりします。

あと一ヶ月で出来ることを見極めながら、できるだけ発語を振り付けと同じように稽古できたら、と思っています。

 

 

 

それから、先日やった1ページを返しました。

そこで、やはり高杉さんがトルソーから恵美ちゃんに話す相手を変えるタイミングについて、再考します。部屋の中にあったトルソーを見ているうちに姉のことを思い出し、その姉がしゃべり出す、ということにしたいのですが、そのタイミングと方法がまだベストではない感じ。セリフを言うタイミングを変えたり、目線や転がり方などの変更でどう見えるか、検証していきます。

そしてそこから、まっちゃんの居方について、話が及びます。これが面白かった。まっちゃんは恋人を追いかけてきた男、なのですが、ざっくりとした目的は6月中の稽古ではっきりしたものの、最初のページでは行動に一貫性がない状態でした。テネシーと「ずっと付き合ってきたけどもう別れたいと思っている相手」ぐらいに考えていたのですが・・・来てすぐにズボンを下ろすが、拒否されたので、テネシーをここから連れて帰ろうとし、それも拒否されたので無理やり襲おうとする。。。そしてその後彼は「フランク・ウォーターズが言ってたけどね・・・君は彼の前で服を脱いで踊って見せたんだって?・・・どうして僕にもしてくれないんだい?・・・君がフランク・ウォーターズにしてやったことさ」(財産没収のセリフ)というのです。

改めて、このセリフにフォーカスすると、まっちゃんと高杉さんはまだ、性的な関係を結んでいないのではないか。ということは出会ったばかり、これからどういう手続を踏んで二人が深い関係になっていくのか、ワクワクドキドキしているはずなのでは。であれば、この家に来たのももしかして二人は、イチャイチャするためだったのかもしれない。

創作をしに来たが、セックスをしたがる恋人に邪魔される話ではなく、セックスをしに来たが創作意欲を掻き立てられ、恋人に去られる、という話。

先日は恵美ちゃんが「亡霊」であることがはっきりし、次に高杉さんとまっちゃんの関係が刷新されました。いろんなことが整理されていき、それに伴ってセリフにも意味が出てきます。もっともっと稽古がしたい、と思いながら、この日は終了しました。

 

財産没収稽古2017.7.11

今日は短い時間の稽古の日。

美術の夏目さんが来てくださったので、まずは通し。6月までにできた下地をお見せします。演出助手の下野くんも今日から合流です。嬉しいです。

2週間ほど経っているので、忘れているところもありながら、まずまず通りました。通した中で、「森へ分け入る入り口」感のある箇所が3箇所もあること。やはり5ページの始末がついていないこと、作ったダンスをどのように反映させていくか、などが課題となって見えてきました。そして発語の問題も。

残りの時間、まずは1ページ目をじっくり当たっていきます。このページのセリフにある「貯水槽」が何なのかが気になる、と高杉さん。セリフを台本どおりのストーリーでなく、こちらで掘り下げた設定に当てはめていくので、簡単に馴染んでくれないのは当然ですが、だからと言って誤魔化さないというのが今回の再演の楽しみ。

正直ベリーホットな稽古場で、回らぬ頭を回転させます。ちょっと調べてみると、貯水槽、当時のアメリカでの感染症の原因の一つでもあったそうです。菌が繁殖してしまう格好の場所。元々ある「お姉さんが肺病で死んでいる」という設定がにわかに浮かび上がってきます。

命も源でもある貯水槽に、繁殖した菌のせいで、死にゆく人々。初演の時もなんとなく、貯水槽には死体が浮かんでいるというイメージを持っていました。

そこで、貯水槽に関わるセリフはすべて、恵美ちゃんが言うことにして、つまり、えみちゃん演じる姉=死者が言うセリフとして解決をつけ、1ページを流してみると、すっきり、面白く分かりやすくなりました。トルソーとえみちゃんの倒れる角度、まっちゃんが高杉さんに声をかけるタイミングなど、細かい調整をしながら何度か通します。手応えのある稽古でした。

財産没収稽古2017.07.05

今日から新しく借りた稽古場で。

恵美ちゃんが、この一週間の稽古おやすみ期間中に、いろいろと考えてきてくれた動きについて、まっちゃんと高杉さんが、受け取っていく。15個の、テキストから読み取れることばを動きにする。恵美ちゃんとしてはもう少し、動詞が欲しい、とのこと。

バレエで鍛えられた体が、紡ぎだす動きは、一朝一夕では真似できない。

そういうことを憂いながら、高杉さんはただただ、恵美ちゃんの動きを取り込もうと真剣。
「楽しい」「楽しい」とつぶやきながら、まっちゃんはもくもくとこなしていく。
二人の素直な心と体に乾杯。

ある程度練習をした後、3人同じ動きを、スタートするタイミングをずらして動いてみる。
いくらでも見ていられる、面白さ。

その間、山口は、台本から追加でやれそうな動きを探す。「舐める」「探す」「凧揚げする」「燃殻が手につく」など。

この動きを、いろんなシーンに転用する。「財産没収」では、踊るという描写がとても多く出てくるのだが、ダンスにとどまらず、使いたいと話し合う。でもそれが、物語を阻害するものにならないように。深く、わかりやすく、面白くなるように。

恵美ちゃんが、動きの中に役を引き受けていきたい、と言ってくれる。
全てを削ぎ落とすことが、決して良いわけではないこと。
そうすることで、物語をぶち壊さない作用が見込めるだろうと思う。
私たちはあくまで、テネシーの物語を借りるということ。

発語にも、同じような考えが適用できる。

新しい稽古場は、いろいろなん有りながら、やはり、嬉しい。

新劇場設立のためのクラウドファンディングについて

ツイッターで「新劇場設立のために、若い演劇人から搾取している」とか「面白い演劇やってたら勝手に篤志家が寄付してくれるやろ、なんで自分らでお金出し合ってるのかわからない」とかそういう意見を読んで、ついつい、喰ってかかってしまって、冷静なフリしてしつこくしつこく問いかけてしまい、

朝5時に息子に可愛い笑顔で起こされ、
「またやってしまった」
と激しく後悔してます。

世の中の人、最初はみんな、こんな可愛い赤ちゃんなんやなあ。
愛おしいです。

でも言ってることはやっぱりおかしい。
「搾取」?クラウドファンディングは搾取なのか!?
「面白い演劇やってたら寄付される」それは、「本当に美しければスカウトされる」というようなやつですか?「待っていれば白馬の王子様は現れますか?」

あかん、また熱くなる。すいません。
ツイッターで良かったです。ツイッターやと声の調子が伝わらないから。録音もされないし。

さて、そんな私ですが、新劇場が設立されたらオープニングイベントでこけら落とし公演をさせてもらえるような約束は、していませんし、そんな期待もしていません。

私がなんでこんなに熱くなるかというと、一番に思い当たる節は、

私が、3年間、アソシエイトアーティストとして劇研で公演させてもらってきたから。

です。

東京や大阪でまともに劇場借りてお芝居しようと思ったら、劇場費だけで数十万円かかります。
劇研は、私たちに、その5分の1ぐらいのお値段で、劇場を貸してくれました。その上広報を手伝ってくださいました。お客さんまで呼んでくれたのです。

それがどれだけ稀有なことか。

だから私は、応援したいと思いました。
すでに多くをいただいたので、それをお返しするような気持ちです。
でもこれは、誰かに強要するものではありません。
私はこういう理由で寄付がしたいけれど、ご飯を食べるお金もないような若い演劇人に、「払えよ!」なんて、全く思いません。ねえ、思うわけないやん、だって、持ってないんやろ?

払えへんやん。

私もずっとそうやったし、、ああ、誰かを助けたいのに、私がまず、持ってない、と何度も自分を責めてきたものです。誰かを助けるには、まず自分が豊かでなくてはいけないんだ、と反省しながら、それでも演劇をやり続けてきました。

だから、気持ち悪い話ですけど、最近「お金ない」とつぶやいている人を見ると「うちに来てご飯を食べて欲しい」と毎回マジで思ってしまいます。気持ちわるがられるのが怖いので、言いませんが。

私の枯渇しない母性は、ほんまに、自分でも気持ち悪いし厄介です。
それはさておき、

何か協力したいのに、今お金がないからできない、というジレンマはわかるけど、それを「搾取している」と言ってしまうのは、あまりにも、あまりにも、このプロジェクトの真意を理解していないと言えるでしょう。

このプロジェクトの真意はなにか。

その前に小話。私は昔、上の弟の結婚式に招待された際、嬉しすぎて我慢できなくなり、どうしてもある程度のお祝いをしたいと思いつきました。

私と弟二人は、とても貧乏な家で育ちました。お小遣いなどもらったこともなかったし、一人部屋なんてなかったし、布団の下にはカビが生えていたし、弁当はいつも真っ白だったので、母の強烈な愛だけを栄養に、私たちはなんとか、大きくなりました。という苦労を共にしておりましたので、弟が結婚するとなった時、私は、10万円を包みたい!と思ったのです。このあふれんばかりの祝福の気持ちは、お金に変えられる!そう思いました。

それで、すでに6時から17時までバイトをしていたのですが、そこにさらにバイトを一個追加してほとんど寝ずに働き、そのバイト代2ヶ月分ぐらいを全てお祝い金に変えました。

もちろん、ツケはしっかり回ってきて、バイト中何度も寝てしまい、同僚に告げ口され偉い人に呼び出されて、「寝るならやめてもらいます」と言われたことは今でも忘れられません(当たり前)。でもその時に私、弟に

「弟よ、このタイミングで結婚式をするなんて、貧乏な私から搾取する気ですか」

とは一ミリも思いませんでした(当たり前)。

別に、寄付したいんならバイト増せよ、と言っているわけではありませんので勘違いしないでね。ただ、「お金がないから寄付できない」というロジックは破綻していますよ、ということです。寄付したいと本当に思ったらバイトでもなんでもして、寄付できます。お金がないから寄付できない!搾取するな!と怒ったあなた。あなたは、今、お金がないことに、疲れています。精神的に参っているのです。わかります、お金がないと参るから。余裕もなくなるし。だから休んでください。マジで。キモいけど、よかったらうちにご飯食べに来てください。そしてパンを買うお金125円を80日貯めたら、1万円寄付できますから。

さて、あごうさんが、石油王で、劇場を作るからお前ら金出せ、と、黒い眼鏡と黒スーツの男たちにカゴを持って一劇団ずつ回らせたら、私も「搾取や」と感じます。でも、彼もまた、自分の公演の計画をする時には、おそらく予算の少なさに苦しみながら、1公演ずつなんとか終えていく、立場であることを、知ってください(たぶんやけど)

そして、そんな状況でも、この「劇場が全くない」という状況を変えようと、自ら立ち上がったのです。そのことを、まず、理解してほしい。私はあごうさんの妻でも、あごうさんの親友でも、あごうさんの手下でもありませんし、あごうさんもまた、こんな妻は嫌だろうと思うのでたとえ話をしただけでもいたたまれなくてたまりませんが、それはさて置き、私は単に、彼と同じ世代の京都で演劇をするものとして、予測でものを言っております。(ですので違ってたら謝ります)

だからこそ、彼の心意気に感動したからこそ、この、劇場が全くない、という状況を変えようと立ち上がった彼、彼らに対し、「面白くない芝居をやり続けてきたせいだ」と思っている人がいたことに、愕然としました。

あんた、もっかい聞くけどこのプロジェクトの真意、理解してる?

てか、面白い演劇て何?

あーおっきい声出すと疲れるわ。

さて、面白くない芝居を誰かが見た→もう劇場なんか絶対行かへん、とその人は思った→そういうお客さんがたくさんいて、小劇場にお客さんが集まらなくなる→と→劇場が潰れる、わけではありません

このロジックもベロベロに破綻してます。

小劇場にお客さんが集まらないから劇場が潰れる、ということは、ありえません。だって、お客さんが集まらなくても、やりたい人がいれば、その人たちは劇場にお金を払って、演劇を続けていくからです。実際、客席穴だらけでお芝居されたことある方も、いらっしゃるんじゃないかと思います。劇場は、お客が入る入らないに関わらず、劇場費払ってくれたらやらせてくれるというのが、一般的です。もちろんお客さんが入らなくて毎回ノルマが厳しくやめていく人も多いでしょう。それでも、やりたい人は毎年現れます。そういう人がいる限り劇場はつぶれません(ちなみにこれとは別に、お客さんが入る劇団だけを呼ぶ劇場もあるし、実際に客席がバカみたいに広くて現実問題お客が入らないとできない劇場もありますがこれらはまた横に置いておきます)

では、今、劇場が閉鎖される理由は何か、というと、「お客さんが集まらないような芝居ばかりしているような劇場は要らない」と多くの人に思われている、ということがあげられます。

「費用対効果」が一見、薄いように見えるのが、芸術の哀しいところです。政府が芸術や教育に比較的お金を割かないのは、当然、費用対効果が薄いからです。それで、もっと客の喜ぶものを見せないとあかんわ、と言われたり、思われたりしている、という現状があります(教育界では、もっと学生の喜ぶ授業を、とかいう恐ろしいことになっているそうですが、これもまた横に置きます)。

そういう風に思われている、ということについて、その印象を覆すために、確かに、劇場は動かなくてはならないのが現状です(本当は政府がやってくれたら一番いいんだけどね)

で、例えば、東京に、こまばアゴラ劇場という、とても私たちにとってはありがたい劇場があります。あの劇場も、劇研と同じように、手厚い待遇で私たちにお芝居をさせてくれますが、あの劇場のラインナップ剪定の基準は、将来にわたって支援会員が増えていくかどうか。

劇場のラインナップについて

しかし芸術監督の平田さんは、支援会員が増えていくようなものを選ぶ、と言いながら、その実、あらゆる多様なものを揃えます、と書かれています。その中には人気の高いものもあるし、それ以外のものもある。そうなのです。いろいろ観れること、を重視されておられます。その中には、今の段階では、お客さんがあまり寄りつかないようなものもあるかもしれない。でも、それはもしかしたら、将来的にものすごく重要な表現かもしれない可能性を「摘まない」で「育てる」つもりで、あの事業をされておられると、私は感じています。

京都にできる劇場も、おそらく、そういう面は真似ていくことでしょう(知りませんが)。しかし今の所そういうやり方でしか、お客さんが増え、同時に才能の芽も育てることができる、という、引き裂かれた状況を、生き抜くことは不可能のように思えます。

新劇場は、才能の芽を摘まないために、設立されます。断言します。その芽を持っているのは自分かもしれない、と考えてみてください。そう思うだけで良いのです。あとは設立を夢見てワクワクしながら日々の創作に励めば良いのです。誰も搾取していません。むしろ、水と肥料を他人が用意しようと言ってくれているんです。それがこのプロジェクトの真意の一つだと、私は思っています。

さて、最後に、何を持って「面白い」とするか、という本題から逸れた件ですが、私にもわかりません。

ただ、最近、面白い記事を見つけました。”京都の名店が語る良いコーヒー”という、SOU・SOUのウェブに乗っていた記事です。そう、あのアトリエ劇研の近くにある珈琲屋さん、ヴェルディの紹介記事です。

「美味しい、美味しくないは個人の嗜好によるものなので、著しく劣化した珈琲でも、それを美味しいと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、食べ物・飲み物には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです。〈続木義也〉」

この後の、豆の選別の記事が、本当に、面白かったです。これを「演劇」に置き換えたら、どうなるでしょう。

「面白い、面白くないは個人の嗜好によるものなので、例えば著しく品のない芝居でも、それを面白いと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、演劇には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです」

うーん、なんか、差別的かなあ。あんまりですかね?私がこれを読んだら、「何よ、誰が良い悪いって決めんのよ」って思うかも。でも、ぜひそのあとの、良い品質の生豆、ハンドピック、良い焙炒、新鮮さの記事を読んでください。こちら

この続木氏の、緻密な作業、思想のある一貫した態度、こだわり、しつこさ。

これをやって初めて、「摘まない」芽としてみてもらえる。面白いか、面白くないか、という土俵に上がることができる。この過程を経ていない豆は、俳優は、劇作家は演出家は、あらゆる演劇の分野における人々は、その「芽」であるとは気がついてもらえないのでしょう。

あとね、その「芽」は発芽しないかもしれません。発芽しないかもしれないものを、「摘まない」っていう勇気。その勇気のことを、想像してほしい。

***

正直言って、演劇に何の関わりもない方が「何やってんだ、自分たちでお金出し合って劇場とか、バカみたい」と言ったって、私は、何も言いません。その人は確かに、恩恵を受けないかもしれないし、その人がそう思ったってある意味、仕方がないかもな、とも思います。

でも、自分が、「芽」である可能性がある人。

その「あなた」を摘まないための環境づくりに、過去には同じように一つの「芽」だったあごうさんが、立ち上がったのです。同じ「芽」同士、協力しませんか。それは別に、お金でなくてもいいんですよ。

ということが、私は、言いたい。言いたいだけなのに、こんなに書いてしまいました。

長かったわ。ほんまに、この文章にクラウドファンディングしてほしいわ。ゼーゼーゼー

したため「ディクテ」を観て

開始すぐに長い暗転。赤ちゃんがいるので、常々寝不足気味のせいか、急激な眠気に誘われる。そこから5分ほど、目を閉じたり開けたり。

俳優たちが大きな声を出したので、目覚める。

全てを見終わって、あらすじ、とか、言いたいこと、などについては(言いたいことがあるかどうかも含め)私は全くわからなかった。ただ、私はそういう「わからなさ」にはあまり苦手意識がないようだ。それよりも、演者の声、発語、身体などにとても興味が有る。要するに、メタなメッセージの取り扱い方に興味惹かれる。私がこの芝居に好感を持った大きな理由は、演出の和田さんがおそらく、この演者の身体と発語について「興味を持って演出をした」という点に尽きるのではないだろうか。(だからメタな視点で演出しない演出か、そこに興味のない作品については、全く興味が持てない)

前半の発語は、時折「地点」というカンパニーを彷彿とさせる耳に面白い発語。それらは誰かに向かって発せられるものというよりは、音として楽しむ、という感じ。この芝居は、演者と演者の間にしっかりとした受け答えを目的としたセリフが交わされることはついぞなかったように思うのだが、前半はこの発語に工夫がされていたせいか、「会話」が成り立ってなくても、楽しめる。(「会話」というのは言葉を媒介しないものも含めて、すべての「やりとり」のこと)。口を開けたまま、しゃべったり、避けたオブラートの隙間から人が見えたり、くわえた石を別の人が咥え直したり、そういう視覚的、聴覚的な面白さはたくさんあった。

ただ前半がそうだった分、後半にいくにつれて、発語のルールが各演者に任されているような状況になっていくと、このお芝居がそもそも、お芝居というよりは朗読になっていることに気づかされ、「ストーリー」があることに気づかされ、その筋を追おうとしてしまうことに気がついた。要するに、演者たちが「無意識に」あるいは「意識的に」発語の矛先を求めてしまっていたせいかと思う。それでもそれらは演出の指示がないので、仕方なく空中分解し、一向に「会話」が交わされない状況は変わらない。

また、特に後半にいくに従って、セリフのつっかえ、言い間違い、などが増えていくのも、おそらく演者たちがこのセリフを身体に落としきれていないせい、あるいは、「虚構」から逃れようというコンセプトの演出の盲点、「セリフを間違ってはいけないという虚構」に知らず知らず絡みとられているせいと感じた。

身体と発語に興味を持って演出すると、どうしても、演者の「人間」としての生理というものを考えざるをえなくなる。

例えば石ころのゴロゴロと転がった舞台で、素足で動き回るシーン。演者はここで、自分の大きく振りかぶった腕に体全体を引っ張られるという動きを繰り返しながら発語するのだが、彼女は無意識に、下に落ちている石を避けようとした足さばきをしている。しかし「石にづまづく」という虚構を演出されているため、避けながら、ある一つの石にはつまづく、という離れ業を成し遂げなくてはならない、しかし同時に発語もしているわけで、その混乱した指令に、本来コントロール下にあるはずの発語がぶれる。

あるいは、オブラートのような白い薄い膜を口で溶かしながら発語するオープニング。この後四人の演者はとあるタイミングで「ずっと息を止めていた」かのような、あるいは「全速力で100メートル走った」かのような息切れを起こすのだが、なぜ、「オブラートを口で溶かしていた」だけの身体が、そういう「息切れ」を起こすのか、そこの生理の無視、が気になった。

他の点で面白く、身体と発語について向き合おうとしているだけに、時折そういった「演者の生理を無視する」演出がされていたことには、少し、ハッとさせられた。ラスト、とうとう演者は「日常会話」てきな発語をするのだが、あの発語を客が受け入れるためには「こっちはこういうルールでいきますんで」という、オープニングでの決意表明のようなものを必要とするのではないか。この作品では、オープニングで逆の約束をしている。私たちは、日常会話を行いません。演者と演者はコミュニケーションをとるふりをしません。発語そのものの音を楽しんでください。という約束をしたように感じた私は、中盤からだんだんと空中分解する発語に戸惑い、ラストで少しだけ、恥ずかしくなった。

私が身近で観れてしまうチケット料金数千円のエンタメと呼ばれるものが苦手なのは、そこの「こういうルールでいきますんで」という自覚がない芝居が多いからだとこの時気がつく。それはまあ、エンタメに限らないことなんだけど。

ただ、改めて、私がこの芝居を見た後に、とても清々しい気持ちになった理由は、「身体と発語」というものに着目することが、私たちが小さな劇場、すなわち小劇場でできる有力な挑戦なのだ、ということを、和田さんが思っているように感じたせいだと思う。テレビの前で芸人のギャグに笑い転げているような、あるいは有名な俳優の出ている映画を見て感動して涙を流すような、そういう体験は、小劇場でなくてもできるわけで、小さな密室、真っ黒の、あるいは真っ黒を目指した怪しい空間で、何ができるかといえば、そもそもこの空間で芝居なんてものをしようと思った自分、が、それまでの人生で「メタメッセージ」に敏感に反応し、振り回され、苦しんできたせいではないのか。そこに着目しないでどうする。ということ。

演者の中では、飯坂美鶴妃さんが良かった。何はともあれ、セリフを完全にものにしていたということ。彼女は天性の俳優だと思う。彼女は「器」なのだ。だから和田さんの演出を、分からない部分も含めて、いっさいがっさい受け止めて、演技に還元していた。もしかしたら彼女は時に空っぽとしての苦悩を有するかもしれないけれど、やはり俳優としての才能のある人だと強く思った。もし演出に対して疑問を持ち、それが体に落ちにくいなとなった時は、それをとことん演出に突きつけて共に解決していかないといけない、そうしないと俳優としての力量を100パーセント出せない。そういう俳優の方がどうも、割合的に多いと思う。でも、それってとても難しいこと、日数的にも、関係的にも、なので、演者は疑問を持ったまま舞台に立ち、無意識にセリフを拒否するために、「間違う」のかなあ、と、勝手なことを思ったりした。

いずれにせよ、最終的にやはり、私は、したためを応援したいと思った。
それは、すなわち、私が創作者として刺激されたから、という理由が一番大きい。
こういう作品が、個人的には当然だが一番「観てよかった」と思う。
ただ、応援と言っても、お客さんを百人連れて行くような、あるいは10万円を寄付するような、具体的な応援ができない以上、こうやって感じたことを言葉にすることが、一つの応援になるのではないかと思ったのでした。

次回も観に行きたいと思う。

おしまい。

アトリエ劇研想像サポートカンパニー公演 したため#5
「ディクテ」
原作:テレサ・ハッキョン・チャ
翻訳:池内靖子
演出・構成:和田ながら
出演 飯坂美鶴妃 岸本昌也 七井悠(劇団飛び道具) 山口恵子(BRDG)

アトリエ劇研に於いて、2017年6月25日


写真は私の忘れた自転車の鍵を持って来させられた夫と息子。

財産没収稽古2017.06.24

今日は、残りの2ページ(前回までは全7ページと書いていたのだが、やっていくうちにト書きが増え、8ページになりました)のセリフの割り振りを、暫定で決めるところから。初演でもそうだったが、ラスト周辺はだまし絵的にずらしたりせずともそのまま使えるセリフが多いので、サクサクっとセリフを割り振ることができる。これは再演の強みだと思った。

初演の後半の動画を見る。意外と動いていないことがわかる。つまりセリフを発しているだけのイメージ。もうすこし動きを入れていたと思っていたのだが、記憶違い。

それから実際に何度か、決めたセリフの割り振りでとおしてみる。ダンスをどう作るか、という話を恵美ちゃん発でしてくれる。やりたくないダンス、やりたいダンス。私が安易に「アメリカンなダンスを」というたばかりに、恵美ちゃんは言いにくそうに「こういうのは・・・したくないんです・・・」とブギウギダンスのようなものを真似してくれる。

確かにそれは違う。確かに違うのに、確かにそういうの思い浮かべてた(稽古場では言わなかったが)。

恵美ちゃんは、一つの一連の動きを作り、それを大きくしたり小さくしたりしながら随所で使ってはどうかと提案してくれる。

それで私からも、今舞台上で演者がやっている動きの「動詞」をピックアップしてみて、その動きをつなぎ合わせることで振り付けを作ってみてはどうかと提案した。

そこで高杉さんが、ダンスの話をしているのに、全然別のことを考えていた、と告白して、オープニングについての提案をしてくれた。

今、オープニングは初演と同じく、追いかけてきた恋人に気がついたテネシーが、自分で部屋の電気をつける、ということにしているのだが、それを、恋人につけてもらってはどうか、ということ。

私は、初演の時から、ここでテネシーが電気をつけることにずっと違和感を持っていた。暗いところで作業をしていた人が、他者がやってきたから電気をつけるって、そんな気遣い、するだろうか?創作に夢中になっているのに、いや、それより酔っ払っているのに!通常なら恋人が電気をつけて、テネシーの酔いを醒ますぐらいがいいはずなんだ。そう思ってた。

でも思っていたのに、言わなかったし、解決しようと思ってこなかった。だって、そのままでもなんとなくうまくいってたから。それに気がつく。演出として杜撰。

恋人が電気を付けることにすると、テネシーは転がっているトルソーの方に、恋人を避けて偶然近づくことができる。「この素敵な人形」というセリフ(初演では恵美ちゃんが言ってた)を、これまではまっちゃんが言ってた。でも、恋人が言うセリフとしてはずっと違和感があったので、とりあえず暫定かな、と保留にしていたのだ。それが、高杉さん、つまりテネシーのセリフになる。

そう、まさに、このセリフは、テネシーのセリフなのだ。

そうすると、その後に挿入するダンスについても、まっちゃんがなぜかトルソーと踊る、というようなことをしなくて良くなる。

このオープニングの改善案には、興奮した。興奮したと同時になぜこれを初演で私が思いつかなかったのか、と残念に思ったが(だってずっと違和感感じてたのに)、それもこれも、あらゆる様々な因果関係で偶然今、高杉さんの脳がピピっときたわけで、2年前の、2015年6月の稽古では、誰も、思いつく余地がなかったのだ。

ということにして、落ち込みもそこそこに、次へ。

恋人とテネシーが、「青い鳥」というカフェの裏のゴミ箱の近くで出会った、というイメージを、私たちは初演から共有している。そこで二人はなんとなく惹かれあい、恋人同士になった。それをどこかでやりたい、と高杉さんは切望しており、逆にこのイメージを提案した私には、どこにそんな隙があるのか、さっぱりイメージできなかった。

でもここで、そのシーンができそうということに、前回の稽古でなった。酔っ払いが三人で喋っているような、セリフの割り振り。今日はさらにそのセリフの割り振りを更新して、作ってみる。必要最小限の美術でやるので、ゴミ箱感、というのは出にくいのであるが、それでも、なんとなくわかるような感じに出来上がった。

稽古の最後に通しをしたかったので、その前にもう一度、ラストを通してみる。やってみたら、テネシーが、最後に、恋人に自分を襲わせる隙を作っているように見えて、これまた興奮(演出的に)。でも恋人はもう、去ってしまう。これって、まさに、テネシー・ウィリアムズ。というわけで、よりそういう風に見えるように、動きを微調整。

それから、先ほどの高杉氏のオープニング提案を実際にやってみて、通しをした。

ランタイムは35分だった。ダンスや間を作っていけば、予定通り40分程度になりそうだ。

通しが終わって最後の1時間、振り返る。5ページが丸ごと、「よく分からない」こと。
7ページで急にダンスをしだす意味、とか、

恵美ちゃんにどうやってローズ的要素を入れるか(ローズはテネシーの姉。恵美ちゃんは今、あくまでアルヴァ、という、主役のウィリーの姉でしかないのだが、できればローズ的な要素も入れたい)

恵美ちゃんはあくまで高杉さんの妄想上の人物であること。恋人とは違うということをお客さんに伝えたい、ということ。

など、諸々問題を共有して、6月の稽古を終了した。

 

財産没収稽古2017.06.23

この日は実に2時間のみの稽古。
前回の稽古が、じうのお熱で早退ということになったので、私抜きで3人が進めてくれたシーンについて、説明を受け、実際にやってみてもらった。

全部でA47ページあるこの戯曲。
現在、5ページ目を検討中だが、ここまでの流れを説明すると、

テネシーウィリアムズが、ふと、空き家に入る。酒瓶片手に、一室に侵入すると、そこには姉さんが座っている。テネシーは驚き、姉さんに触れようとすると、ふと消えてしまう。

テネシーはこの空き家の雰囲気と姉さんの幻影から、インスピレーションを得て、戯曲を書き始める。そこへ恋人が追いかけてくる。恋人は、テネシーを連れて帰りたいのだが、テネシーは戯曲を書くのに必死だ。時折セリフを口走りながら、妄想を文字で捉えようとしている。恋人はテネシーを襲い、テネシーは恋人を瓶で殴って気絶させる。

テネシーの紡ぎだす劇世界は、部屋に転がっていたトルソーや恋人をも利用してどんどん広がっていく。ふとテネシーは、幻影の姉をもう一度「見る」。テネシーはいよいよ劇世界へ没入する。

という感じまで進んでいる。

で、今日。

恵美ちゃんは、不動産を差し押さえに来た州の調査官。オープニングで高杉さんが見た「姉さんの幻影」は、実はこの調査官で、彼女はテネシーとは違う時間軸で、その家を差し押さえに来ている。時間軸が違うので、テネシーにとって彼女は幻影だし、彼女からしても、テネシーには一切気がついていない、という状況。

という前置きを経て、
高杉さんたちは、私が休んだ間に、

*物音に気がついて、恋人と息をひそめる。

*調査官がやってきたようだ。

*鑑定士が懐中電灯で辺りを照らしながら家の中を歩いている、テネシーたちは、彼女に気付かれぬようこそこそとしゃべる

というシーンをこの5ページを使って、作ってくれていた。

初めてそのシーンを説明してもらった時、私はパニックになった。
なぜなら、そのシーンを、本来のストーリーに基づいたセリフを使って表すからだ。

本来のストーリーでもそこの部分は調査官について語っているので、そういう意味ではやりやすいのだが、やはり合わないセリフは歴然とそこにある。それを無理なく使うためには、

調査官だった恵美ちゃんが、アルヴァになったり、
テネシーだった高杉さんが、ウィリーになったり、

するのである。
何の前触れもなく。

その「役が重なり合っている」ということを、お客さんに伝える努力を放棄し、イメージだけで「整理した気分」になり、乗り越えようとすると、破綻するのはわかっていて、

でもどうしてもイメージだけで進むしかないシーンもあって(なんせセリフが変えられないので)

この「だまし絵を劇化する」という作業の難しさを改めて痛感した。

それでも何とか5ページを終え、6月最後の稽古になるこの週末で、最後の6、7ページを仕上げることを決意して、私たちは別れた。