私の家族 12月13日

2場に細かく動きをつける作業。
俳優が用意してきた心理や情報をあえて壊す。動きを制御したり、細かく動きをつけたり、色を消すために台詞を音として発語してもらったり。俳優に負荷をかけることで、役への解釈や感情を密閉する。
「感情に名前をつけてしまうことへのアンチテーゼ」と演出中の山口さんは言った。言葉で定義してしまうことで、演技は俳優の解釈の説明に堕したり、「こういう人がいます」という見本帳になってしまう。
「(動きのクセがリセットされた俳優のことを)パフュームみたい」「だけど、ロボットのような演劇がしたい訳ではない」
ニュアンスや情報を削ぎ落とした俳優の、生身の身体の豊かさ。人と人がただ対峙するだけで生まれる関係性の面白さ。俳優に飾り気のない状態で板の上に立ってもらったとき、むしろ観客にはより豊潤な見方が許される。それは、演劇という表現形態だからこそできることは何かという問いへのひとつの答えなのかもしれない。

文責:大貫はなこ