新劇場設立のためのクラウドファンディングについて

ツイッターで「新劇場設立のために、若い演劇人から搾取している」とか「面白い演劇やってたら勝手に篤志家が寄付してくれるやろ、なんで自分らでお金出し合ってるのかわからない」とかそういう意見を読んで、ついつい、喰ってかかってしまって、冷静なフリしてしつこくしつこく問いかけてしまい、

朝5時に息子に可愛い笑顔で起こされ、
「またやってしまった」
と激しく後悔してます。

世の中の人、最初はみんな、こんな可愛い赤ちゃんなんやなあ。
愛おしいです。

でも言ってることはやっぱりおかしい。
「搾取」?クラウドファンディングは搾取なのか!?
「面白い演劇やってたら寄付される」それは、「本当に美しければスカウトされる」というようなやつですか?「待っていれば白馬の王子様は現れますか?」

あかん、また熱くなる。すいません。
ツイッターで良かったです。ツイッターやと声の調子が伝わらないから。録音もされないし。

さて、そんな私ですが、新劇場が設立されたらオープニングイベントでこけら落とし公演をさせてもらえるような約束は、していませんし、そんな期待もしていません。

私がなんでこんなに熱くなるかというと、一番に思い当たる節は、

私が、3年間、アソシエイトアーティストとして劇研で公演させてもらってきたから。

です。

東京や大阪でまともに劇場借りてお芝居しようと思ったら、劇場費だけで数十万円かかります。
劇研は、私たちに、その5分の1ぐらいのお値段で、劇場を貸してくれました。その上広報を手伝ってくださいました。お客さんまで呼んでくれたのです。

それがどれだけ稀有なことか。

だから私は、応援したいと思いました。
すでに多くをいただいたので、それをお返しするような気持ちです。
でもこれは、誰かに強要するものではありません。
私はこういう理由で寄付がしたいけれど、ご飯を食べるお金もないような若い演劇人に、「払えよ!」なんて、全く思いません。ねえ、思うわけないやん、だって、持ってないんやろ?

払えへんやん。

私もずっとそうやったし、、ああ、誰かを助けたいのに、私がまず、持ってない、と何度も自分を責めてきたものです。誰かを助けるには、まず自分が豊かでなくてはいけないんだ、と反省しながら、それでも演劇をやり続けてきました。

だから、気持ち悪い話ですけど、最近「お金ない」とつぶやいている人を見ると「うちに来てご飯を食べて欲しい」と毎回マジで思ってしまいます。気持ちわるがられるのが怖いので、言いませんが。

私の枯渇しない母性は、ほんまに、自分でも気持ち悪いし厄介です。
それはさておき、

何か協力したいのに、今お金がないからできない、というジレンマはわかるけど、それを「搾取している」と言ってしまうのは、あまりにも、あまりにも、このプロジェクトの真意を理解していないと言えるでしょう。

このプロジェクトの真意はなにか。

その前に小話。私は昔、上の弟の結婚式に招待された際、嬉しすぎて我慢できなくなり、どうしてもある程度のお祝いをしたいと思いつきました。

私と弟二人は、とても貧乏な家で育ちました。お小遣いなどもらったこともなかったし、一人部屋なんてなかったし、布団の下にはカビが生えていたし、弁当はいつも真っ白だったので、母の強烈な愛だけを栄養に、私たちはなんとか、大きくなりました。という苦労を共にしておりましたので、弟が結婚するとなった時、私は、10万円を包みたい!と思ったのです。このあふれんばかりの祝福の気持ちは、お金に変えられる!そう思いました。

それで、すでに6時から17時までバイトをしていたのですが、そこにさらにバイトを一個追加してほとんど寝ずに働き、そのバイト代2ヶ月分ぐらいを全てお祝い金に変えました。

もちろん、ツケはしっかり回ってきて、バイト中何度も寝てしまい、同僚に告げ口され偉い人に呼び出されて、「寝るならやめてもらいます」と言われたことは今でも忘れられません(当たり前)。でもその時に私、弟に

「弟よ、このタイミングで結婚式をするなんて、貧乏な私から搾取する気ですか」

とは一ミリも思いませんでした(当たり前)。

別に、寄付したいんならバイト増せよ、と言っているわけではありませんので勘違いしないでね。ただ、「お金がないから寄付できない」というロジックは破綻していますよ、ということです。寄付したいと本当に思ったらバイトでもなんでもして、寄付できます。お金がないから寄付できない!搾取するな!と怒ったあなた。あなたは、今、お金がないことに、疲れています。精神的に参っているのです。わかります、お金がないと参るから。余裕もなくなるし。だから休んでください。マジで。キモいけど、よかったらうちにご飯食べに来てください。そしてパンを買うお金125円を80日貯めたら、1万円寄付できますから。

さて、あごうさんが、石油王で、劇場を作るからお前ら金出せ、と、黒い眼鏡と黒スーツの男たちにカゴを持って一劇団ずつ回らせたら、私も「搾取や」と感じます。でも、彼もまた、自分の公演の計画をする時には、おそらく予算の少なさに苦しみながら、1公演ずつなんとか終えていく、立場であることを、知ってください(たぶんやけど)

そして、そんな状況でも、この「劇場が全くない」という状況を変えようと、自ら立ち上がったのです。そのことを、まず、理解してほしい。私はあごうさんの妻でも、あごうさんの親友でも、あごうさんの手下でもありませんし、あごうさんもまた、こんな妻は嫌だろうと思うのでたとえ話をしただけでもいたたまれなくてたまりませんが、それはさて置き、私は単に、彼と同じ世代の京都で演劇をするものとして、予測でものを言っております。(ですので違ってたら謝ります)

だからこそ、彼の心意気に感動したからこそ、この、劇場が全くない、という状況を変えようと立ち上がった彼、彼らに対し、「面白くない芝居をやり続けてきたせいだ」と思っている人がいたことに、愕然としました。

あんた、もっかい聞くけどこのプロジェクトの真意、理解してる?

てか、面白い演劇て何?

あーおっきい声出すと疲れるわ。

さて、面白くない芝居を誰かが見た→もう劇場なんか絶対行かへん、とその人は思った→そういうお客さんがたくさんいて、小劇場にお客さんが集まらなくなる→と→劇場が潰れる、わけではありません

このロジックもベロベロに破綻してます。

小劇場にお客さんが集まらないから劇場が潰れる、ということは、ありえません。だって、お客さんが集まらなくても、やりたい人がいれば、その人たちは劇場にお金を払って、演劇を続けていくからです。実際、客席穴だらけでお芝居されたことある方も、いらっしゃるんじゃないかと思います。劇場は、お客が入る入らないに関わらず、劇場費払ってくれたらやらせてくれるというのが、一般的です。もちろんお客さんが入らなくて毎回ノルマが厳しくやめていく人も多いでしょう。それでも、やりたい人は毎年現れます。そういう人がいる限り劇場はつぶれません(ちなみにこれとは別に、お客さんが入る劇団だけを呼ぶ劇場もあるし、実際に客席がバカみたいに広くて現実問題お客が入らないとできない劇場もありますがこれらはまた横に置いておきます)

では、今、劇場が閉鎖される理由は何か、というと、「お客さんが集まらないような芝居ばかりしているような劇場は要らない」と多くの人に思われている、ということがあげられます。

「費用対効果」が一見、薄いように見えるのが、芸術の哀しいところです。政府が芸術や教育に比較的お金を割かないのは、当然、費用対効果が薄いからです。それで、もっと客の喜ぶものを見せないとあかんわ、と言われたり、思われたりしている、という現状があります(教育界では、もっと学生の喜ぶ授業を、とかいう恐ろしいことになっているそうですが、これもまた横に置きます)。

そういう風に思われている、ということについて、その印象を覆すために、確かに、劇場は動かなくてはならないのが現状です(本当は政府がやってくれたら一番いいんだけどね)

で、例えば、東京に、こまばアゴラ劇場という、とても私たちにとってはありがたい劇場があります。あの劇場も、劇研と同じように、手厚い待遇で私たちにお芝居をさせてくれますが、あの劇場のラインナップ剪定の基準は、将来にわたって支援会員が増えていくかどうか。

劇場のラインナップについて

しかし芸術監督の平田さんは、支援会員が増えていくようなものを選ぶ、と言いながら、その実、あらゆる多様なものを揃えます、と書かれています。その中には人気の高いものもあるし、それ以外のものもある。そうなのです。いろいろ観れること、を重視されておられます。その中には、今の段階では、お客さんがあまり寄りつかないようなものもあるかもしれない。でも、それはもしかしたら、将来的にものすごく重要な表現かもしれない可能性を「摘まない」で「育てる」つもりで、あの事業をされておられると、私は感じています。

京都にできる劇場も、おそらく、そういう面は真似ていくことでしょう(知りませんが)。しかし今の所そういうやり方でしか、お客さんが増え、同時に才能の芽も育てることができる、という、引き裂かれた状況を、生き抜くことは不可能のように思えます。

新劇場は、才能の芽を摘まないために、設立されます。断言します。その芽を持っているのは自分かもしれない、と考えてみてください。そう思うだけで良いのです。あとは設立を夢見てワクワクしながら日々の創作に励めば良いのです。誰も搾取していません。むしろ、水と肥料を他人が用意しようと言ってくれているんです。それがこのプロジェクトの真意の一つだと、私は思っています。

さて、最後に、何を持って「面白い」とするか、という本題から逸れた件ですが、私にもわかりません。

ただ、最近、面白い記事を見つけました。”京都の名店が語る良いコーヒー”という、SOU・SOUのウェブに乗っていた記事です。そう、あのアトリエ劇研の近くにある珈琲屋さん、ヴェルディの紹介記事です。

「美味しい、美味しくないは個人の嗜好によるものなので、著しく劣化した珈琲でも、それを美味しいと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、食べ物・飲み物には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです。〈続木義也〉」

この後の、豆の選別の記事が、本当に、面白かったです。これを「演劇」に置き換えたら、どうなるでしょう。

「面白い、面白くないは個人の嗜好によるものなので、例えば著しく品のない芝居でも、それを面白いと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、演劇には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです」

うーん、なんか、差別的かなあ。あんまりですかね?私がこれを読んだら、「何よ、誰が良い悪いって決めんのよ」って思うかも。でも、ぜひそのあとの、良い品質の生豆、ハンドピック、良い焙炒、新鮮さの記事を読んでください。こちら

この続木氏の、緻密な作業、思想のある一貫した態度、こだわり、しつこさ。

これをやって初めて、「摘まない」芽としてみてもらえる。面白いか、面白くないか、という土俵に上がることができる。この過程を経ていない豆は、俳優は、劇作家は演出家は、あらゆる演劇の分野における人々は、その「芽」であるとは気がついてもらえないのでしょう。

あとね、その「芽」は発芽しないかもしれません。発芽しないかもしれないものを、「摘まない」っていう勇気。その勇気のことを、想像してほしい。

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正直言って、演劇に何の関わりもない方が「何やってんだ、自分たちでお金出し合って劇場とか、バカみたい」と言ったって、私は、何も言いません。その人は確かに、恩恵を受けないかもしれないし、その人がそう思ったってある意味、仕方がないかもな、とも思います。

でも、自分が、「芽」である可能性がある人。

その「あなた」を摘まないための環境づくりに、過去には同じように一つの「芽」だったあごうさんが、立ち上がったのです。同じ「芽」同士、協力しませんか。それは別に、お金でなくてもいいんですよ。

ということが、私は、言いたい。言いたいだけなのに、こんなに書いてしまいました。

長かったわ。ほんまに、この文章にクラウドファンディングしてほしいわ。ゼーゼーゼー