悪童日記稽古12月23日

全てはつながっている、と思う今夜。
私の体のことも、息子のことも、夫と家族の関係も、悪童日記の稽古から、私の創作の事、トリコAという団体、何もかも。

稽古の仕方、というのがなんとなく、見えてきて、楽しくなっている。
が、しかし、なんでもひとっ飛びで変化できると思いがちな私、

待て待て、私の体はまだまだあらゆるところが凝り固まっているぞ、と考えると、まだまだ、まだまだなのだ。

悪童日記は、小説で十分に面白い作品。
話も面白いし、何より言葉が面白い。
書き言葉が面白い。
(原作で読めるようになってみたいものだが、そんなことにチャレンジしてたら数年経ってしまうので、とりあえず日本語で読ませていただくのだが、それでも十分面白い。翻訳の堀さんが素晴らしいのだろう)

逆に言うと、これを映像化、舞台化してしまうと、その言葉の面白さが消えてしまうことになる。
また、安易には扱えない、ダークな描写もたくさんある。

この二つをどう、残していくか。
それが課題になると思う。

ストーリーを伝えるだけなら、映画がすでにやっている。
どうしても伝えたい、言葉の仕掛けの面白さ。
どうしても残したい、倒錯したエロチシズム。

悪童日記の重要ポイントは、すべてが「動詞」で描かれているということだ。
それなのに、感情を表す言葉がほとんどないにもかかわらず、
感情を揺さぶられる。

言葉がまるで、映像なのだ。

少年が主人公の、戦争の物語なのに、描かれる性癖が戦争よりもえげつない。
これをどうやって、舞台に乗せるか。