人生はコントロールできるのかどうなのかという事を最近折に触れて考えてて、
結論から言うとコントロールできる訳がないし、でも自分ではコントロールしているつもりでいるし、という考えに今落ち着いてる。
目の前で起きる事ひとつひとつは自分が考えて行動して出した(つもりの)結果でも、
それが積み重なっていくとある時点で想像もしてなかったところに流れ着いている事に気づいたりする。
それで振り返ってみると、自分が気がついてない大きな力にその都度ジャッジが左右されていた事に気がついたり、
だからといって見通しを完璧に立てる事等不可能に近く、
頭で支配しようとしたら身体は全力で反抗してくるし、
だいたい、何もかもを完璧にこなしたと思ったら、天変地異で全て一瞬にして崩れ去る事だってままある。
こうやって書きながら考えているとやはり、
頭でなくて身体の感度を上げておく必要があるんだなと思う。
もちろん色んな書物の受け売りなんですが。
時々会うパワフルで魅力的な人って、
身体と心が見事に連動していてよどみがない事が多い。
でもそれが若い人の場合、年を重ねるうちに身体が老いて行って、これまで無自覚にできていた事ができなくなったりする例も沢山みてきた。
私に関して言えば、若い頃から身体と心はいつもチグハグだったし、
全く連動しない中で、身体を犠牲にして無理矢理、頭だけで動いてきた。
その代償として数年前に色んなものがはじけ、
ボロボロに砕かれ、心の破片を集める気力を失う中、身体が「まだ生きたいねん」と私を引っ張って行ってくれた。という感じか。
まあ、分からんけど。
でも連動するようにはなってきた。
というか無理に動かなければ、普通に連動はするんだなあ、身体と心って。
でも連動させる事が最近できるようになってきて、改めて思うのは、
やっぱり、どこかで意志の力を発動させて、無理しない程度に、身体を鍛えて行く必要があるという事だ。
そういう見通しを立てる事に意味がある。
何が起こるか分からないとしながらも。
鍛えるのは筋トレとかそういう限られた意味ではなくて、もっと幅広い意味で。
それで、身体の、私の場合で言うなら心肺機能を向上させる事に寄って(これはアレルギーのせいなんです)、心も強化していくということが必要なんだろう。
与えられたものに安穏としたがっているだけではやっぱり、
何か大きな強いものに、流されていってしまう。
既に持ち合わせているもののすごさにまず気づいた事は褒めてあげたいが(自分を)、
そこからもう一歩、自分の中での上に踏み出していかねばならんと思う。
でもそうする事で、私は、
創作者としてももう一歩踏み込んでいけるんではないかと思うのです。
そうやったらええなあ。
昨日おうちに、梶川君がコンタクト(コンタクトインプロヴィゼーション。ダンスの一種)で出逢ったフィンランド人のKと京大生のTが遊びにきてくれて、みんなで餃子を作りながら話をした。衰えた自身のフィンランド語の筋肉に愕然としながらも、英語で会話の橋渡しをする事ぐらいはできて、その中で英語で喋る時の自分の頭の回し方についてとか、Kの祖父がユダヤ人である事とか、色々深い話ができたのがよほど楽しかったのだろう。
夢の中で私は自分の右側にあるリトアニアのある町の風景が描かれた絵画を眺めている。
だれかが「リトアニアという国は今経済的に破綻しているので、この通りお店が全部閉まって人通りもほとんどないのです」
と私に説明してくれるのだが、
私は心の中で「うそや、これは冬のヨーロッパのありふれた日曜の風景だ(元社会主義国は日曜はスーパーが閉店する事が多い)」
と心の中で反発しながら
ふと左を向く。
すると町には沢山の人々が凍えながらもスケートをして楽しんでいるのだ。
お店は絵にあった店以外はみなオープンしていて活気がよく、
ひとりのリトアニア在住の日本人がチョコレートを店主に注文しながら「ほんと寒いわね」と話しかけてくれた。
意味分かる?
私、いつの間にか絵画の中に入り込んでいたのです。
こういう演劇がしたいのよね。
起きたら軽くフィンランドシックになってて(昨日フィン語を話したせい)
Miesten vuoroというドキュメンタリーをYouTubeで観て、
胸を締め付けられてる(フィン語が聞きたかっただけで、おじさんの全裸が観たかったわけじゃない)
特にこれ最後に熊が出て来るのでちょっとみてください。熊がテーブルを潰してる。
最後に「潰れた・・・」とおじさんが呟く。
なんじゃそりゃ。