月別アーカイブ: 2014年12月

ひとでなしの恋2014.12.19

いよいよ明日がオペラ本番。

毎日お会いして、毎日微調整していくと、カンパニーに一体感が出て来る。とても貴重な時期。若い頃はこの時期になるともうパニックで思考回路が完全ストップしていたのだが、そう言う年齢でもなくなり、落ち着いていると、どんどん深い所に皆さんと入って行ける。もちろん、難題はまだまだあるんだけど。最後まで粘る。

毎日生演奏を聴きながら稽古していると、音楽の中でおのずと自分が好きな箇所が出て来る。演劇を創る時も好きなシーンはもちろん出て来るが、音楽で好きな部分というのはもっと小さな箇所、例えばここで入るピアノのドの音みたいな小ささ。面白いなあ。その部分に近づくと心臓が高鳴る。音楽って原始の時代から人間とともにあったんだなと訳の分からない感動をしてしまったりしている。

色んな事が滞っている。徐々に前に進めて行かないとエラい目にあうぞと思いながら、風邪を引いて2日間、寝苦しい夜。

あー最近ほんま、なりふりかまわず生きてるなー

でも稽古中は不思議と集中していられた。

シチュー

久しぶりにシチューを作った。赤ずきんちゃんの稽古の後。昨夜から戻しておいた玄麦とスプリットピーをゆでて、その間に野菜をバターと塩こしょうで炒める。ゆで汁と放牧牛乳を加え、酒粕を少しいれて、後は玄米粉で少しとろみ付け。それだけでものすごくこくのあるスープが出来上がる。落花生さんの雑穀カンパーニュと共に食べる。楽天堂さんと落花生さんが近い今の家は、最高だなと想う。

市販のルーはやっぱり大好きだけど、最近めっきり使わないのは、スパイスとお豆を買うようになってから。マクドもポテチも食べる「なんちゃって健康志向」だけど、やっぱりルーを使わないで料理しちゃうと、特別な事ができる自分に酔えて、気分はいいわな。

それに稽古が立て込むと中々台所には立てないけど、時々こうやって料理をして、食べて、洗い物をして、最後にシンクの汚れを布巾でしっかり拭き取るのは、精神衛生的にもとても良い。

untitled

赤ずきんちゃん。

今回の座組もまた、素晴らしい。みんなが自分でそこに立っていて、誰ももたれかからず、信頼している感じがする。ありがたい。

今日で赤ずきんちゃんの稽古は一旦休憩。明日からは、本番一週間前にせまったオペラの稽古を再開する。稽古に入る前に何度か、オペラの通し稽古を映像で観て、改めてこれがどういう作品なのかを感じる。ひとでなしの恋。これもやはり素晴らしい。

自分が演出家として二つの作品の稽古を同時進行させるのはこれが初めてだ。

できれば避けた方が良いパターンなのかもしれないが、私みたいな性格だと実は割と有効かもと想ったりする、一旦、遠くから作品を見つめる機会が否応無しにやってくるから。

全然別件のことで、大失敗して落ち込むけど、とりあえず客観視しようと想って、山口茜が落ち込んでいる!と自分で呟いてみるとバカバカしくてちょっとだけ笑えたりしたが、何も解決はしていない。あーあ。バーカ。

やりたい事がいっぱいで大変だけど、いつか死ぬんだなと想うと切なくなる症候群はいまだ健在。今日もとあるシーンの右近さんの顔は、神だった。

untitled

最近、柿ピーのピーばかり食べるようになった自分に驚いている。これ、柿派からピー派に移行する人ってどのぐらいいるんやろ。逆の人もいるんかな。何歳ぐらいで移行するんやろ。しない人はどれぐらいの割合なのかな。調べてみたい。

赤ずきんちゃん稽古12月10日

今日稽古をして思った。私には圧倒的に、笑いが必要だ。笑えるものでないと、前を向けない。

前というのは人生の前でもあるし、稽古場のシーンでもある。稽古場、じっと俳優を見つめるとき、そこに「酔い」を見つけた途端に私は恥ずかしくて死にそうになる。これはもう生理的に。絶対的に。

人が酔っている姿をみるのは嫌いじゃない。時々憧れる。私もそうしたいと思う。

でも私は酔えない。私がお酒を飲めないのは、そのせいなのか。いや、お酒が飲めないから酔えないのか。(関係ないのは分かってるけどな)

笑いを生み出すためなら、いくらでもアイディアが出て来る。それが有効かどうか、センスが良いかどうか、それは全然分からないし、正直どうでもよくて、ただ、笑いのためならば、私の意志が途端に強固なものになって前に押し出て来る。

あと音楽的な事。リズム的な事。そういうのにたいしても、割と理想がはっきり見えて、夢中になれる。

赤ずきんちゃんの台本や稽古が、これまでの創作に比べて飛躍的にリズミカルに前に進んでいるのは、圧倒的にそういうものに焦点を絞っているからだと思った。無惨で悲惨で滑稽なものを、私は笑いながらリズムよく描写したいし、それが実現しつつある今回の現場は、私の精神にとても良い。

それがやっと分かってきた最近、私が好みだなと思う、私が素晴らしいなと思う、最近観た、同世代の作家の作品への憧憬に、いいあんばいに諦めが混じってきて、段々と楽になってきた。私にはやっぱり、ああいう硬派な作品は作れないわ。すごく憧れるけど、できない事ってあるんやなと思う。

安っぽくてバカバカしい事だと、私自身の、潜在的な意識の食いつきが凄く良いのが分かる。身体が嫌がらないのが分かる。

遅いけど、自分のカラーのようなものがようやく見えてきた最近は、やっぱり、少し生きやすい。「なりたい自分」じゃなくて「自分」というのがすこーしだけ分かったら、肩の力が抜けた気がする。余計なチャレンジをしなくなるとも言う。それはそれで少し寂しいけど。

これまで私は、自分のプロフィールに、事実しか書けなかった。事実というのは実際に起きた事。という意味。受賞歴とか、公演歴とか。

こういう芝居をしたいと思っているとか、社会に対してこうおもってんだ、とか、私はアーティストとしてこういった特性があるんです、みたいなことが、書けなかったの。それは、こだわりではなくて、単純に分からなかったから。自分に何ができるのか、本当に分からなかったから。だからそう言う事がかける人たちをもまた、ほんとうに羨ましいと思ってきた。

まあ分かったからって言うて、今じゃあどうそれを書いたらいいのかは、まだあんまり分かっていないけど、でも、やりたい事、追求したいこと、もっともっといっぱいやりたいこと、は、今の所割とはっきりしているので、正直言うと前途洋々だと自分で思う。

京都で俳優をしていえる黒木陽子ちゃんが、自分にとっての編み物は人に褒められるものではなくて夢中になれるものだとFacebookに書いていたけど、私にとってのそれはきっと、笑いなんだと思った。歌う事とかもそう。

それが、評価されるかどうかは別。自分が楽しめる事が、それである、という事が、重要なんだなあと思って、すっごい楽。

葉が赤い

台本を書く事に集中していたら、どんどんと、深い所に沈んで行く感覚があって、そのあたりからTwitterとFacebookに投稿する気分が少しずつ失せて行った。きっと一時的なものだと思うので、またいずれ戻るのだろうけれども、今は書きたい事が浮かべば、ブログに来る事にしようと思う。どういう心境なんだろう。わからんなあ。

ちょうど台本に沈んでいた時に、オペラの合同稽古も始まり、こちらはこちらでもうとんでもなく刺激的な現場で、もう1日何も食べられなかったみたいなことも重なり、よく言えば充実していたんだけど、悪く言えば、非日常な毎日だった。

40を手前にして、今までに無く自分のやりたい事とやれる事が重なってきた感覚があって、それは台本を書くにしても演出をするにしても、もっと言えば生きることそのものもそうなんだけど、なんというか、重なっているのだ。身体も頭も動く感覚。若い頃のほうがずっと身体が動かなかった。頭ばかりが焦っていたな。今は思ったところに身体が動いて行く。

という訳で、創作にたいして、日常がおろそかになっている。日常というのは、寝たり起きたり食べたり、移ろう季節の中に生きているという事。なるべく立ち止まって、夕焼けや、紅葉や、笑顔みたいなものを目に焼き付けたいと思うんだけどな。創作に入ると、生きている時間がその創作の中になってしまって、実際の自分の身体の置かれている場所がおろそかになる。

IMG_3181

そんなときに急に自分が永遠の命を手にしている錯覚の中で生きていた事に気がついて怖くなった。

子どもの頃は死ぬ事が怖くて怖くてたまらなかった記憶があるんだけど、今回のはそれではなかった。いつなのかは分からないけれども、いずれ必ず自分が死ぬという事を、自分はまったく勘定にいれずに生きている事に恐ろしくなった。

自分がいなくなっても地球は変わらず回って、私が生きていた痕跡も少しずつ無くなっていって、いずれ忘れられてしまうんだな、それは、いつか私がフィンランドから帰国した時とは全然違う喪失感なんだなと思って、たまらなくなった。喪失感というのだろうか。死んでいる立場からの感覚のこと。死んだら感覚も何もないのにな。

2年間生活したフィンランドから帰国する時も、ああ、私がいなくなったってフィンランドは何も変わらずこれからもあるんだなと思って飛行機の中で泣いたけど、死んだあとは、泣く事もできないし、いったい、どういう事になってしまうんだろう。そう言う事を何も考えずに生きてる私って、バカじゃないのか。

そう思ったら、普段私を癒してくれているベッドとか、そういう無機質なものをみただけでも泣けてきた。私が幸せだから?だから死にたく無いってこと?うーん、そうなのかな。違う気がする。なんというか、「いずれ必ず死ぬのだ」という事実が、まったく無視されている気がするのだ。私だけじゃなくて、この社会において。

いずれ死ぬのだったら、何の為に生きるのかってなれば、それはもう個人の損得ではなくて、人類の未来のため以外かんがえられない。全ては未来の人類のために、私は何ができるだろうと思う。

きっとこんな事分かっている人はいっぱいいる。

でも私は、40を手前にしてやっと、気がついている

IMG_3178