山口茜の日記」カテゴリーアーカイブ

アトリエ劇研と時差

今日はアトリエ劇研最後の日。私は夕方からじうのご飯と夫のご飯をそれぞれ作り、じうのご飯はお弁当にして保育所へ向かった。じうは私を見て、手を叩いて喜んだ。私たちは自転車に乗り込み、40分ほどかけてアトリエ劇研へ向かった。

道中、豆乳ととうもろこしと一口ハンバーグを食べながらじうは初めての長丁場のサイクリングに挑んだ。サイクリングには最高の季節になりました。

劇研に少しだけ顔を出したんだけど、2週間前の最後の公演の際に散々遊んだ場所だったせいか、私と離れてもビクともせず、じうは劇研を歩き回った。私のことも、声をかけてくれたいろんな人のことも、目に入らず、その場所がその日で最後であることも知らない彼は、何度もこけ、劇場の扉をこじ開け、自動販売機をバンバン叩いていた。

IMG_2823

その後じうを夫の職場まで連れて行き、夫にじうを預け、そこから単身三条商店街へ向かった。観たのは時差『隣り』@green&garden。劇研制作だった長澤くんが代表を務めている。

帰ってから読んだパンフレットに「この映画がもし、これ見よがしな悲劇によって皆さんを楽しませようとしたのであれば、私たちに苦情をお願いします」と書いてあった。その通り、泣けるところなんぞ一切なかった(泣くつもりもなかったが)。むしろ集中しないでね、と言わんばかりの手ぶれ感満載の、でも時折マジで笑ってしまうシーンありの、そしてちゃんと私の感じた違和感を回収してくれる映画になっていた。

回収してくれることが私にとってどういうことかと聞かれたら、それはやはりカタルシスであったように思う。要するに映画の中に出てくる、統合失調症による「幻聴」や親族による病人への「感動的なセリフ」は、一瞬、ガリガリ君にクリームシチュー味が出た時のような、いやもっとだな、キシリトールガムにおでん味が出てしまった時のような違和感を感じさせるのだが、それはこの主人公である統合失調症の桜ちゃんが、元演劇部であることと関係している。つまり友達や家族に「セリフを言ってもらっていた」ことが後々分かるのである。彼女は高校生の時演劇部で、今でも演劇がやりたいと思っているらしい。そして「ノブ子に愛を」というタイトルで脚本・演出を担当し、友人と映画を撮った。その「セリフ」なのである。

ちなみにこの映画は城間典子さんという方が編集をしていて、これは彼女が仕掛けたものなんだと思う。桜ちゃんは統合失調症という病を抱えているからこそ、演劇という行為で自分を癒そうとしている、そういった割と手垢のついたメッセージまで内包している仕掛けだった割に、なんだかフレッシュで、気持ちが良かったのは、おそらく、桜ちゃんが脚本・監督をした作品を、城間さんが編集したからなんだと思う。

パンフレットを読まずに映画が始まった瞬間から、「統合失調症をテーマにされると妙に冷静になってしまうわ」という自分と「精神病って覗き見したくなるよね」という自分を発見していたのだが、それはやはり私自身が、20代を精神的に非常に辛い状態で過ごしたせいであり、やはり40歳の今、それを乗り越えてしまったというのか、忘れてしまったというか、つまりそういった「精神的な問題」から距離ができてしまったせいだろう。だからもし、ただ、統合失調症の女の子の1日を、下手な演技で見せられてたりしようもんなら、多分、退屈していたと思う。いや、退屈というより、知ったかぶりな自分が楽しむことを邪魔していたと思う。でも見終わった後、そんな知ったかぶりはする必要がなかったし、もっとおかしくなってる瞬間を見たかった、とか、幻聴の内容を詳しく教えてほしいという感情も生まれてこなかった。

主人公の桜ちゃんの顔に中毒性があるのである。最後に出てきたときなんか、全然普通じゃないように見えるその顔が、とても綺麗で目が離せない。時々、静止画を見せられて延々と会話だけを聞かされるシーンが幾つか挿入されていて、「待て」の状態が続くので、その後に桜ちゃんが出てきて喋ってくれると、砂漠の中で水をもらったような状態とでも言おうか、とにかく桜ちゃんの動く顔に夢中になってしまうのである。やらしい仕掛けだと思った。まんまと乗せられてたけど。

ていうか、今でも桜ちゃんにちょっと、会いたくなっているぐらいだ。うーん、顔が魅力的だったと書いたけど、結局彼女の言動の中に何か惹かれるものがあったんだろう。

手相占いのおばさんが「28歳までに資格を取れ」って言ってたのがツボだった。桜ちゃんの「演劇」という言葉を聞き取れてなかったのもよかった。20代の頃に幾度かネズミ講やエステや宗教に勧誘されたことを思い出した。私は喧嘩を売って撃退してたけどね。桜ちゃんのような素直さや優しさはなかった。

帰宅したらじうは寝ていて、夫がご飯を食べていた。劇研のことをもっと書こうと思っていたんだけど、ほとんど時差の話になってしまった。

結局、劇研がなくなること、まだ実感がわかないままだからだと思う。またいつか、あのあたりを偶然通った時に、そこにあったはずの劇研がなくなっているのを目にした時に、何かこみ上げる日が来るのだろうか。とにかく今は、こんなにもお世話になったのに、何も感じない。ただあの場所を作ってくださった波多野茂彌さんと、あそこで出会った全ての方に、感謝している。特にディレクターを務めた田辺剛さんとあごうさとしさんには、感謝の思いしかない。ありがとうございました。おつかれさまでした。

 

 

トリコ・A次回公演は9月1日に!

9月になりましたら、トリコ・Aの新作公演のご案内をいたします。しばしお待ちくださいませ。

いよいよ8月も終わりにさしかかり、虫の音が聞こえてくるようになりました。朝晩、少々冷えますね。皆様、季節の変わり目お体ご自愛ください。

新劇場設立のためのクラウドファンディングについて

ツイッターで「新劇場設立のために、若い演劇人から搾取している」とか「面白い演劇やってたら勝手に篤志家が寄付してくれるやろ、なんで自分らでお金出し合ってるのかわからない」とかそういう意見を読んで、ついつい、喰ってかかってしまって、冷静なフリしてしつこくしつこく問いかけてしまい、

朝5時に息子に可愛い笑顔で起こされ、
「またやってしまった」
と激しく後悔してます。

世の中の人、最初はみんな、こんな可愛い赤ちゃんなんやなあ。
愛おしいです。

でも言ってることはやっぱりおかしい。
「搾取」?クラウドファンディングは搾取なのか!?
「面白い演劇やってたら寄付される」それは、「本当に美しければスカウトされる」というようなやつですか?「待っていれば白馬の王子様は現れますか?」

あかん、また熱くなる。すいません。
ツイッターで良かったです。ツイッターやと声の調子が伝わらないから。録音もされないし。

さて、そんな私ですが、新劇場が設立されたらオープニングイベントでこけら落とし公演をさせてもらえるような約束は、していませんし、そんな期待もしていません。

私がなんでこんなに熱くなるかというと、一番に思い当たる節は、

私が、3年間、アソシエイトアーティストとして劇研で公演させてもらってきたから。

です。

東京や大阪でまともに劇場借りてお芝居しようと思ったら、劇場費だけで数十万円かかります。
劇研は、私たちに、その5分の1ぐらいのお値段で、劇場を貸してくれました。その上広報を手伝ってくださいました。お客さんまで呼んでくれたのです。

それがどれだけ稀有なことか。

だから私は、応援したいと思いました。
すでに多くをいただいたので、それをお返しするような気持ちです。
でもこれは、誰かに強要するものではありません。
私はこういう理由で寄付がしたいけれど、ご飯を食べるお金もないような若い演劇人に、「払えよ!」なんて、全く思いません。ねえ、思うわけないやん、だって、持ってないんやろ?

払えへんやん。

私もずっとそうやったし、、ああ、誰かを助けたいのに、私がまず、持ってない、と何度も自分を責めてきたものです。誰かを助けるには、まず自分が豊かでなくてはいけないんだ、と反省しながら、それでも演劇をやり続けてきました。

だから、気持ち悪い話ですけど、最近「お金ない」とつぶやいている人を見ると「うちに来てご飯を食べて欲しい」と毎回マジで思ってしまいます。気持ちわるがられるのが怖いので、言いませんが。

私の枯渇しない母性は、ほんまに、自分でも気持ち悪いし厄介です。
それはさておき、

何か協力したいのに、今お金がないからできない、というジレンマはわかるけど、それを「搾取している」と言ってしまうのは、あまりにも、あまりにも、このプロジェクトの真意を理解していないと言えるでしょう。

このプロジェクトの真意はなにか。

その前に小話。私は昔、上の弟の結婚式に招待された際、嬉しすぎて我慢できなくなり、どうしてもある程度のお祝いをしたいと思いつきました。

私と弟二人は、とても貧乏な家で育ちました。お小遣いなどもらったこともなかったし、一人部屋なんてなかったし、布団の下にはカビが生えていたし、弁当はいつも真っ白だったので、母の強烈な愛だけを栄養に、私たちはなんとか、大きくなりました。という苦労を共にしておりましたので、弟が結婚するとなった時、私は、10万円を包みたい!と思ったのです。このあふれんばかりの祝福の気持ちは、お金に変えられる!そう思いました。

それで、すでに6時から17時までバイトをしていたのですが、そこにさらにバイトを一個追加してほとんど寝ずに働き、そのバイト代2ヶ月分ぐらいを全てお祝い金に変えました。

もちろん、ツケはしっかり回ってきて、バイト中何度も寝てしまい、同僚に告げ口され偉い人に呼び出されて、「寝るならやめてもらいます」と言われたことは今でも忘れられません(当たり前)。でもその時に私、弟に

「弟よ、このタイミングで結婚式をするなんて、貧乏な私から搾取する気ですか」

とは一ミリも思いませんでした(当たり前)。

別に、寄付したいんならバイト増せよ、と言っているわけではありませんので勘違いしないでね。ただ、「お金がないから寄付できない」というロジックは破綻していますよ、ということです。寄付したいと本当に思ったらバイトでもなんでもして、寄付できます。お金がないから寄付できない!搾取するな!と怒ったあなた。あなたは、今、お金がないことに、疲れています。精神的に参っているのです。わかります、お金がないと参るから。余裕もなくなるし。だから休んでください。マジで。キモいけど、よかったらうちにご飯食べに来てください。そしてパンを買うお金125円を80日貯めたら、1万円寄付できますから。

さて、あごうさんが、石油王で、劇場を作るからお前ら金出せ、と、黒い眼鏡と黒スーツの男たちにカゴを持って一劇団ずつ回らせたら、私も「搾取や」と感じます。でも、彼もまた、自分の公演の計画をする時には、おそらく予算の少なさに苦しみながら、1公演ずつなんとか終えていく、立場であることを、知ってください(たぶんやけど)

そして、そんな状況でも、この「劇場が全くない」という状況を変えようと、自ら立ち上がったのです。そのことを、まず、理解してほしい。私はあごうさんの妻でも、あごうさんの親友でも、あごうさんの手下でもありませんし、あごうさんもまた、こんな妻は嫌だろうと思うのでたとえ話をしただけでもいたたまれなくてたまりませんが、それはさて置き、私は単に、彼と同じ世代の京都で演劇をするものとして、予測でものを言っております。(ですので違ってたら謝ります)

だからこそ、彼の心意気に感動したからこそ、この、劇場が全くない、という状況を変えようと立ち上がった彼、彼らに対し、「面白くない芝居をやり続けてきたせいだ」と思っている人がいたことに、愕然としました。

あんた、もっかい聞くけどこのプロジェクトの真意、理解してる?

てか、面白い演劇て何?

あーおっきい声出すと疲れるわ。

さて、面白くない芝居を誰かが見た→もう劇場なんか絶対行かへん、とその人は思った→そういうお客さんがたくさんいて、小劇場にお客さんが集まらなくなる→と→劇場が潰れる、わけではありません

このロジックもベロベロに破綻してます。

小劇場にお客さんが集まらないから劇場が潰れる、ということは、ありえません。だって、お客さんが集まらなくても、やりたい人がいれば、その人たちは劇場にお金を払って、演劇を続けていくからです。実際、客席穴だらけでお芝居されたことある方も、いらっしゃるんじゃないかと思います。劇場は、お客が入る入らないに関わらず、劇場費払ってくれたらやらせてくれるというのが、一般的です。もちろんお客さんが入らなくて毎回ノルマが厳しくやめていく人も多いでしょう。それでも、やりたい人は毎年現れます。そういう人がいる限り劇場はつぶれません(ちなみにこれとは別に、お客さんが入る劇団だけを呼ぶ劇場もあるし、実際に客席がバカみたいに広くて現実問題お客が入らないとできない劇場もありますがこれらはまた横に置いておきます)

では、今、劇場が閉鎖される理由は何か、というと、「お客さんが集まらないような芝居ばかりしているような劇場は要らない」と多くの人に思われている、ということがあげられます。

「費用対効果」が一見、薄いように見えるのが、芸術の哀しいところです。政府が芸術や教育に比較的お金を割かないのは、当然、費用対効果が薄いからです。それで、もっと客の喜ぶものを見せないとあかんわ、と言われたり、思われたりしている、という現状があります(教育界では、もっと学生の喜ぶ授業を、とかいう恐ろしいことになっているそうですが、これもまた横に置きます)。

そういう風に思われている、ということについて、その印象を覆すために、確かに、劇場は動かなくてはならないのが現状です(本当は政府がやってくれたら一番いいんだけどね)

で、例えば、東京に、こまばアゴラ劇場という、とても私たちにとってはありがたい劇場があります。あの劇場も、劇研と同じように、手厚い待遇で私たちにお芝居をさせてくれますが、あの劇場のラインナップ剪定の基準は、将来にわたって支援会員が増えていくかどうか。

劇場のラインナップについて

しかし芸術監督の平田さんは、支援会員が増えていくようなものを選ぶ、と言いながら、その実、あらゆる多様なものを揃えます、と書かれています。その中には人気の高いものもあるし、それ以外のものもある。そうなのです。いろいろ観れること、を重視されておられます。その中には、今の段階では、お客さんがあまり寄りつかないようなものもあるかもしれない。でも、それはもしかしたら、将来的にものすごく重要な表現かもしれない可能性を「摘まない」で「育てる」つもりで、あの事業をされておられると、私は感じています。

京都にできる劇場も、おそらく、そういう面は真似ていくことでしょう(知りませんが)。しかし今の所そういうやり方でしか、お客さんが増え、同時に才能の芽も育てることができる、という、引き裂かれた状況を、生き抜くことは不可能のように思えます。

新劇場は、才能の芽を摘まないために、設立されます。断言します。その芽を持っているのは自分かもしれない、と考えてみてください。そう思うだけで良いのです。あとは設立を夢見てワクワクしながら日々の創作に励めば良いのです。誰も搾取していません。むしろ、水と肥料を他人が用意しようと言ってくれているんです。それがこのプロジェクトの真意の一つだと、私は思っています。

さて、最後に、何を持って「面白い」とするか、という本題から逸れた件ですが、私にもわかりません。

ただ、最近、面白い記事を見つけました。”京都の名店が語る良いコーヒー”という、SOU・SOUのウェブに乗っていた記事です。そう、あのアトリエ劇研の近くにある珈琲屋さん、ヴェルディの紹介記事です。

「美味しい、美味しくないは個人の嗜好によるものなので、著しく劣化した珈琲でも、それを美味しいと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、食べ物・飲み物には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです。〈続木義也〉」

この後の、豆の選別の記事が、本当に、面白かったです。これを「演劇」に置き換えたら、どうなるでしょう。

「面白い、面白くないは個人の嗜好によるものなので、例えば著しく品のない芝居でも、それを面白いと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、演劇には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです」

うーん、なんか、差別的かなあ。あんまりですかね?私がこれを読んだら、「何よ、誰が良い悪いって決めんのよ」って思うかも。でも、ぜひそのあとの、良い品質の生豆、ハンドピック、良い焙炒、新鮮さの記事を読んでください。こちら

この続木氏の、緻密な作業、思想のある一貫した態度、こだわり、しつこさ。

これをやって初めて、「摘まない」芽としてみてもらえる。面白いか、面白くないか、という土俵に上がることができる。この過程を経ていない豆は、俳優は、劇作家は演出家は、あらゆる演劇の分野における人々は、その「芽」であるとは気がついてもらえないのでしょう。

あとね、その「芽」は発芽しないかもしれません。発芽しないかもしれないものを、「摘まない」っていう勇気。その勇気のことを、想像してほしい。

***

正直言って、演劇に何の関わりもない方が「何やってんだ、自分たちでお金出し合って劇場とか、バカみたい」と言ったって、私は、何も言いません。その人は確かに、恩恵を受けないかもしれないし、その人がそう思ったってある意味、仕方がないかもな、とも思います。

でも、自分が、「芽」である可能性がある人。

その「あなた」を摘まないための環境づくりに、過去には同じように一つの「芽」だったあごうさんが、立ち上がったのです。同じ「芽」同士、協力しませんか。それは別に、お金でなくてもいいんですよ。

ということが、私は、言いたい。言いたいだけなのに、こんなに書いてしまいました。

長かったわ。ほんまに、この文章にクラウドファンディングしてほしいわ。ゼーゼーゼー

喫茶店とつぐむ

八尾プリズムホールへの「つぐむ」という本を書きました。まだ第一稿なので荒いのですが、書いた後の感じと、

あと、先日「私の家族」の戯曲執筆のためのミーティングwith山納さんを開催させていただいて、思うところがいっぱいあったので、

その両方からの徒然を。

私は台本を書くとき、ある程度の速度を持って書かないと掴めない、というような感じを持っていて、その速度を落とさないように一気に書いてしまう。ただ、この20年で物事を少しずつ論理的に考えられるようになって、その分、速度を落とすようになった。

でも、今回はその速度が、まだまだ早いような気がした。

そして、書いている時、手触りを死守しようとするとどうしても、フィクションに行けなかったんだけど、もしかすると速度を落とせば行けるのかも、と感じた。

急に村上春樹の「壁抜け」を思い出した。15年ほど前だろうか。春樹さんのすべての著書を読んだ後に、「壁抜け」を分かったつもりになっていた。でも、今に成って、まだ、実感があるわけではないのだけど、「壁抜け」とはそういうことかもしれない、と思い始めている。全然違うかもしれない。

春樹さんは、走るぐらいの速度がちょうどいい、というけれど、そこはまだ、私にはわからない。憧れて何度、走ったことか。その度に、挫折している。井戸の底に座ったことはない。当たり前か。(ちなみに中身は絶対に真似できないので、私はただの、村上春樹ファンなのですが)

戯曲で、手触りのあるものを書く、ということを死守しながら、しかし、現実では起こりえない(と思っていること)にアクセスしてみたい。

「私の家族」で、それをしたいと思った。

先日ふと、自分の感情の論理性のなさが、急に「見えた」。その時に、私、前より論理的思考が鍛えられたかも、と思った。そしてこれが執筆に生かせるような気がした。

戯曲の構成は非常に重要だ。構成こそが命かもしれない。
そして構成には、論理的な思考が必要だ。
しかし、感情とは、破綻しているものだ。
全く、論理的でない。
だからそこに論理を持ち込んではいけない。
戯曲とは、論理的に組まれた構成という骨組みの上に、この破綻した感情を立ち上げるということなんだろう。引き裂かれている。

閑話休題。

財産没収の稽古をしていると、この戯曲が、壁抜けの可能性を孕みながら、その実「絵画的」になっていることを感じる。「欲望という名の電車」や「ガラスの動物園」では明らかに抜けていた壁が、「財産没収」では歴然と立ちはだかっている。短編なので当然といえば当然なのだが、それを、サファリでは、「演出で壁抜けする」というようなことをしていると思った。

「演出で壁抜けする」

チラシに書いてしまいたいほどのキャッチフレーズだが、壁抜けって、たぶん春樹ファンないとわからないので書けない。

ずっとハッタリに支えられたプライドで生きてきたんだな、と最近つくづく思う。

少しずつハッタリを手放していけている感じがする。

固結び

本当はこうしたいのに、そうならない理由は何か。

そういうことを知ろうと思ったら、
まずは自分の中にある、知らぬ間に固結びされた糸を解きほぐす必要がある。

そうかそうか、これか、と思って解こうとしても思った以上に固くて、最初はまるで、真っ暗な井戸の中に放り込まれたような気持ちにさえなるかもしれない。

だめだ、明るいところに逃げ出したい。空気が薄い。寂しい。と感じる。

だけどそこはふんばって、何としてでも解いていく必要がある。

一生懸命糸をほぐしていくと、自分の無意識を育てた人に対して猛烈に怒りがこみ上げてくることもあるし、失ったものを、こうすれば失わずに済んだのか、と知ることができることもあって、

いろんな感情が浮かび上がってくるけど、その都度、それを表へは出さずにまず見つめて、分析して、紐解いていく。(時々表へ出して一戦交えてくることもある)

なんとか踏ん張って、解けたとき、はっと気がつく。

やりたいことが、形になっている。
やりたい人と、組んでいる。
プロセスを楽しむことができるようになっている。

それができるようになると、自信が手に入って、
自信が手に入ると、自分を好きであるということと、自分の行動を批判するということが共存することもままある、ということが受け入れられるようになる。

自分への絶対的信頼感と愛を損なわずして、自分の行動を厳しくチェックできるようになってくると、それを他者への反映できるようになる。

確かに、教育の本には、6歳までの子育てが、その子の人生のすべてを決めると書いてある。
だけど何歳になってもやり直せる。
てか、そうじゃないと、生きていけない。

私はこれからも、ほつれている部分を探しては、それをほぐす作業を繰り返していく。

こんな抽象的な説明で、何がわかるというのか、と書いてから思ったけど、ほんま、最近、こんな感じで生きています。

怒る

あの、財産没収の稽古場日誌が、とてもストイックなものになりそうなので、私の日記を別途、挟みこんでいきたいと思います。

私の日記は、ただの徒然、私の頭に浮かんでは消えていったことを書きとめるだけのものです。ストイックを中和させるものに、果たしてなれるのかどうか。

今日は「怒る」について書きます。

私はずーっと、オコリンボでした。

「でした」って書くということは、今は違うの?と思いますが残念ながら今も、オコリンボです。私の夫なんかは、びっくりするぐらい「ヤサシンボ」なので、私が怒り出すと、最近なんかはその怒りが静まる行動を粛々をとってくれます。私も、自分が感情に振り回されていることをなんとか俯瞰して見れるようになってきたので、なんというか、私達夫婦、力を合わせて私の「怒り」を鎮める、という、不思議な状態になっています。

ただ、家族以外の人に対しては、オコリンボになることを、私はここ数年、やめていました。やめていたというか、結果、抑え込んでいた、ということなります。やっぱり、感情に振り回されると、人間関係がうまくいかないからです。単純な論理です。

でも間違えて、ただただ、ズブズブに優しい人、になってしまっていたような感じもあります。ここ数年では一つだけ、とても許せないことが起きた時は爆発してしまいましたが、それ以外ではおそらく、ほとんど、誰にも怒らなかったんじゃないでしょうか。

そんなことができたのは、とても大事な人を失ったからです、それを、私のオコリンボのせいだ、と思っていたからです。

でもね、

そうやってニコニコ、「いいよいいよ」「なんでも受け入れるよ」とやってきた結果、

どうも私、自分の何かを抑え込んでいるような感覚に襲われるようになりました。ニコニコし始めた当初は、「こりゃええわ!」「気持ちええわ!」「私めっちゃ性格良い人!」と思ったものですが・・・最近は、どうも、やりすぎている、やりすぎて、自分の芯までなくなっているような感じ。

私自身が、甘い人間になってる感じ。
私、甘えた人間が、大嫌いなのに!⇦怒っている

私ってやっぱり、「怒り」が原動力なんです。
それは、良いとか悪いとかじゃく、そうだ。

ということをふと、思ったりして。

怒りは、悪いことじゃないんだ。
だって、勝手に沸き起こる感情だもの。
そこを否定するってことは、私を否定することになるんだと、ようやく気がつき、

抑え込まずに観察して、行動に対して論理的に批判できるように、なるべきだと、気がつきました。

それは同時に、自分の行動のチェックにもなります。
私の他者に対する批判的な言葉は、そのまま自分に突き刺さるからです。

そうそう、一番しんどかったのは、ニコニコ他者を甘えさせることで、私が、自分にも甘くなっていたことでした。この辺の塩梅って難しいな。

厳しすぎても、甘すぎても、立ち行かないものね。
だってな、お互いに許しあうだけでだらだら生きてて、勝手に天井から肉や野菜や果実が落ちてくるならええよ?でも、やっぱり、誰かがピリッと立ち上がって、人と折衝しながら、自分の食い扶持だけは確保しなあかんわけですから。

このまま、甘えたのままでは、それが無理やと思ったんです。

ちなみにこういう流れは、ある日を境に急にそうなったのではなく、ここ1年ぐらいのことです。1年かけて、ゆっくり、そういう風になってきました。

先日、シニア演劇大会に参加してきたのですが、そこで私、久しぶりに他者に怒りました。これが、演劇で言えばオコリンボ再結成後の第一回公演という感じになりました。

とてもとても怒りました。行動に対して。その行動が何を引き起こしたか(具体的にはうちの団体が迷惑を被った)を伝えて、怒りました。でも、暖簾に腕押し、全く響きませんでした。

ここで私が感情的だった場合、思いが届かないことにジレンマを抱き、さらに怒りを増幅させていたと思います。でも、実は全然感情的ではなかったので、届かないことは織り込み済みでした。

後から「あの人全然反省してなかったよー」とたくさんの人に聞きましたが、怒鳴られて、即座に反省する人はあまりいません。その場をしのぐための謝罪の言葉を発するのが精一杯なんだと思います。反省は、おそらくこの先に、私とは関わりのないどこかで、せざるをえない日が彼にやってきます。だって、1時間以内の作品を作れって言われて、全部のスケジュール表まで配られてるのに、45分もオーバーしてきたんだから。その感覚で生きてたら、どこかで頭打たないわけがない。

ただ、彼の頭を打つのは私ではない。

あの時私に怒る必要があったのは、私自身が、改めて、「ルールを守ることが、他者を守ることになる」という事実を自分に突きつける必要があったからだと思います。

あとは、私が、恍惚一座のメンバーの声を代弁する必要もありました。
あそこで変に穏便に済ませたら、誰の怒りも鎮まらないからです。

怒りは、相手を反省させるツールとしてはとても弱いと改めて思いました。
それでも、私はオコリンボを再結成できて、よかったと思いました。

怒りたくても怒れない人もいるし、泣いちゃう人もいるし、穏便にしか済ませられない人もいるから、そういう時は私が怒ればいいと思ったし、怒ることで、私は私をピリッとさせていくのです。

にしても、くだんの彼、その後、女性の楽屋に入ってきて、ずーっと居座っていたそうです。公共の場所も、男性用の楽屋もあるのにですよ。なぜ、女性楽屋に、入り浸ったのか・・・。我らが恍惚一座のメンバーは、衣装の着替えが大変だったそうで、そのデリカシーの無さに呆れました。ありえんわ。

演出助手と出会いたい

いよいよ、暖かくなってまいりましたね。
街は新緑に染まり、暖かな風と美しい夕焼けに感動し、いつまでもこの季節でいてくれとついひとりごちてしまいます。毎年。

さて、悪童日記が終わり、サファリ・P及びトリコ・Aは次の公演に向けて準備を進めております。

そこで、山口は、

サファリ・P第三回公演「財産没収」演出助手@京都 2017年5月〜8月
トリコ・Aプロデュース演劇公演2017「私の家族」演出助手@東京 2017年12月〜2018年1月

を募集したい気持ちでおります。
したい気持ちというのは、まだ募集要項などを作成するに至ってないからです。

近々、募集するはず!
ご興味のある方にどうぞ、お知らせください。

熱って気持ちいわ!

先日私が人生で初ぐらいの高熱を出した時、すごく気持ちが良かったので、

後で母に「熱って気持ちいなあ」というと、

「アホか、熱なんかでえへん方がいいんや」と返された。

私としてはこれまでの人生ずっと、熱の出ない身体のせいでしんどさがダラダラと続くタイプで辛かったので、産後、こうやって一気に熱が上がり、下がり、回復するというメリハリのある身体になってすごく嬉しかったんやけど、母としては、熱が出ないイコール強い、というイメージがあるらしい。

昔の私なら、そこで、「えー、お母さん、知らんの?熱は出た方がいいねんで?」というところなのだが、ふと思いとどまった。

なぜなら母が続けてこう言ったからである。

「私、お母ちゃんに感謝したもん。若い頃は細い体が良いって思ってたけど、年取ってくると、丈夫なんが一番やなって。丈夫に産んでくれてありがとうって」

確かに、丈夫には産んでもらった、私も。
骨なんか折れたことないし。
大病もしないし。

せやねんな。熱は出えへんけど、確かに丈夫やねんな。

ここはひとつ、熱は出た方が丈夫な体なのだ、という事実を母に押し付けるよりも、黙ってニコニコしてみよう、と思った。母は、マジでおばあちゃんに感謝してるし。

どっちが正しいか、よりも、本人がありがとうって思ってる方がみんな幸せやな。
私みたいに「なんで熱のでえへん体に産んだんや!」と恨みがましく思ってるより、たぶん、ずっと。

シンデレラ

先日書き終えたテキストを寝かしている間、来年のトリコの上演のためのワークインプログレスのために、テキストを考えている。

こういうことがしたい、というのは去年からもうあって、何を使って考えるか、そのことを伝えるための枠組みについて思いを巡らしているんだけども、ああでもないこうでもないと一向に落ち着く気配がない。

ただ、自分が何をしたいのかがはっきりしていることはありがたい。
うまく書けるかどうかなんて全くわからないけど、書きたいことがあるってことが嬉しい。

でもこれを文字にするのが大変なんですーーー!!!

テキストは「準備」。
どこまで準備するか。
できるかにかかってる。

今やりたいと思っていることが、頭で考えているだけなのか、本当にやりたいのか、その試金石でもあるテキスト。とりあえずオーディションまでに少し書いて、オーディションで使用するつもりです。

一緒にやりたいと感じた人たちと、そのテキストで作品を作ります。

シンデレラのように、じうが寝ている間だけ、私は劇作家になれます。
じうが起きている間はじうに夢中になれるように。

ヒー

img_1118