山口茜の日記」カテゴリーアーカイブ

ジゼル・ヴィエンヌと茂木宏文

「幸福な王子」終わりで東京へ。一つは芸術公社の主催するドラマトゥルギー・ラボ特別編、ジゼル・ヴィエンヌ氏のレクチャーに参加するため。もう一つは、今度3月に作らせてもらうオペラのための打ち合わせ。そして幸せなことに、その合間に、夏に講師をさせていただいたワークショップの参加者とランチしたり、ドラマトゥルクの朴さんと落ち合って、京都にいる高杉さんとオンラインミーティングをしたりも。

まずはジゼルのレクチャーを聞きにアンスティチュ・フランセへ行き、あっという間の2時間を過ごす。スタートして5分ぐらいで、あ、参加してよかったやつかも、と思う。いろんなファシリテーターと出会うが、だいたいいつも話して5分ぐらいで、この人が今の私のレベルにぴったりかどうかがわかる。レベルが上すぎても下すぎても何を言っているのかわからないのだ。ジゼルはちょうど私が、感覚としてわかっていたことを少し深く掘り下げたりはっきりと言語化してくれたりで、例えが上手いのも相まって相当面白かった。結局彼女は演出としてとても地味な作業を行っているだけなんだけど、それができているからこそ作品が結実するのだということ。幾つかの過去作品を見せながら説明が進んでいく、彼女の過去作品を以前に何度もウェブなどで観たのだが、ぶっ飛んだ舞台写真からは程遠い緻密で堅実な創作過程を知ることができた。

2時間をオーバーしたので、まだ終わらないうちに私は次の待ち合わせのために神楽坂を登る。

作曲家の茂木宏文さんと落ち合う。イタリアン食べながら、お互いの影響を受けた作品などについて語る。そういう提案してくれたのは茂木さんだ。提案されるまでは思いもつかなかったけど、確かにお互いの興味について知り合うことから始めるのは、創作にとっては重要かもしれない。(今この記事は茂木さんに教えて貰った「ル・グラン・マカーブル」の「マカーブルの秘密」というアリアを聴きながら書いている)

翌日はサマースクールで出会った方々とランチ。勝彦さんの書いた物語に、ウォルフィーさん、いくちゃんと大笑いする。勝彦さんは本当に天才だと思う。

その後もう一度茂木さんと会い、アイディア出し。オペラを作るのは二回目だけど、なんというか、今の所演劇を作るのとあまり変わらないスタート。つまり観客にどういうドラマを届けたいのかということ。ただスタートから作曲家がいるというのが大きく違う点だ。とにかく、作曲家と一緒に作る感覚を私は求めていたし、茂木さんもそれを希望されていたので、幸せな出会いだと思う。にしてもまだそこにいない観客に対して、先にドラマを作るということの難しさよ。これ、人間の脳の動きに似ている。例えば言葉を思い出そうとするとき、私たちはその言葉が何なのか忘れているくせにその言葉が探せばどこかにあることを「知っている」。創作もおそらくそういうことなんだ。観客がその存在を知ってはいるもののその名を忘れてしまったもの。思い出したいもの。それを掘り出すのが私たちなのだろう。

夜はstamp制作ミーティング。朴さんと高杉さんと話す。「財産没収」に始まって、2020年3月までのことを。

次の日は朝10時半から18時まで、ジゼルのワークショップ。課題として読んだロベルト・ヴァルザー「池」が私にとってはドストライクの戯曲で、何度読んでも発見があって面白い。これをどういう風に紐解いていくのかというワークショップに前日から心が躍っていた。

ただ、実際のワークショップは、パフォーマーではない私には結構辛いものであった。ジゼルの話はいくらでも楽しめるのだが、自らがメディテーションに参加するのは辛かった。聴講を希望するべきだったのかもしれない。とにかく、静かな一人きりのプライベート空間で何度チャレンジしてもなかなか掴めない「メディテーション」というものに、全く知らない他者が多くいる初めての場所で挑むのはかなり(私には)無理があった。それでも「郷に入れば郷に従え」が私のモットー、と思い挑んだのだが・・・

彼女がこのロベルトの戯曲をどのように見ていくかが語られたのはやはり面白かった。私が戯曲を読んだレベルで「こうしたい」と思っていたことと、ジゼルのアイディアはほぼ同じだった。でも私が驚いたのはそこではなかった。ジゼルは言った。「この素描のようなものを発表の2年ぐらい前に作ります」と。

サファリ・Pも一つの作品に数百時間の稽古をする。だけど2年前に素描はつくらなかった。そんな前から、そこまではっきりと試すのか。納得するまで俳優を探し続けたりというエピソードも。

メディテーションでは辛い思いをしたが、結局収穫のあったワークショップではあった。今週末はジゼルの「CROWD」を京都で観る。

内臓語にもぐる旅の振り返り

  • この会に参加した動機

今年の夏ぐらいだろうか。東京の劇作家、演出家である西尾佳織さんから、今度京都で勉強会するので、良かったら参加しませんか?とお誘いをいただいた。私は、西尾さんという劇作家を知る機会になるんじゃないかという興味と、この会が自分の知的好奇心をくすぐってくれるかもという非常に受身な気持ちで参加を決めた。

知的好奇心から参加したのではなく、普段発動しない知的好奇心が「何か」によって立ち上がる気配を感じたということだ。スタートとしては少し残念な動機であった。しかしこの勘は当たっていたことが後々分かる。私すごい。

また、その勉強会があるという時期は、現在取り組んでいる「私の家族」という演劇作品の戯曲を仕上げるための大事な期間でもあったが、いつものようにそんなことは気にもせず参加を決めてしまった。途中で、まずい、勉強会に参加している場合じゃなかった!と焦ったのはいうまでもない。

ただこれに関しても、私は私が、戯曲を書いている時の自分の生活が執筆に非常に大きな影響を与えることを忘れていた。年々、深く潜れるようになってきて、まるで深海から空を見上げるように、ぼやっとした抽象的なものではあるものの、やはり生活やその生活に基づく感情の揺れが、そのまま戯曲に影響するような生き方をしている中で、

今回の執筆期間に「内臓語に潜る旅」に参加したことは、単純に執筆時間が減るということを除けば、戯曲にとても良い影響を与えたと思う。

さて、夏から月1回のミーティングを重ね、参加者それぞれがそれぞれの興味とテーマを掘り下げながら、11月の報告会に備えて準備をしていた。私は、内臓語のことが頭の片隅に時折現れたり消えたりしながら、結局、戯曲の執筆に始まり、子育て、公演の残務処理、助成金の申請、会社の立ち上げにおわれていた。

  • 西尾佳織の目的

そんな折、とあるミーティングで西尾さんが、実はこの会って、それぞれが自立した状態で自分の興味を掘り下げていく中で、それを持ち寄って何かできないか、という実験のための企画だったんだよね、と言い出した。別に西尾さんの興味に付き合ってほしいわけじゃないんだと。

マジで!とびっくりした。私は額面通り、この会の題名ともなった吉本隆明さんの「内臓語」にすごく引っ張られていた(この会はそもそも、吉本さんの言う「内臓語」というのについて考えてみましょう、という会だった)し、その中で、すごく興味のある部分として息子の言語獲得についての本を読んだり、あんまり興味の持てない部分を持て余したりしながら、なんとなく、それでもまあ、参加するって言ったしな、的に過ごしていたんだけど、そうじゃないんだと。

あんたの興味はどこにあるのかと。あると思っていたところになくても良いのだと。なければ違うことを探すのか、参加するのをやめるのかも自分に権限があるし、それぞれが自分の好奇心に従い自走している状況でそれを持ち寄り、お互いの興味関心を突き合わせていくことに意味があるのであって、西尾佳織が自分のやりたいことをするためにこの場所を引っ張って行って、彼女のやりたいことを探る会ではないんだと。そう言われたのだった。

  • 知的好奇心

さて、話はそれるが、知的好奇心、英語で言うとIntellectual curiosity、皆さんはお持ちだろうか。私の脳では、好奇心は通常「家事」と「子育て」「自己啓発」「稼ぐ」に働くよう、設計されている。この4つのことになると私は、夜も眠らず本を読み、時間をかけて地道に解釈を改善していく、という作業が苦もなく出来てしまう。なぜならおそらくそれらは皆、生活に即しているからだ。生きていくための急務だから興味が持てる。

しかし私は気がつけば、劇作家、演出家として40歳を迎えている。上記の4つのことに比べると、舞台芸術に対する好奇心が弱い気がするとは、薄々感づいてはいたのだが、だからこそ自分を「劇作家」とはっきり言うことができなかったし、生活にしか興味のない自分を恥ずかしいと思ったまま、自分をごまかしてここまで来たのだった。でも、内臓語に参加していくうちに、気がついた。どうやら私は、生活に即さないことに夢中になることに、罪悪感を感じている。

  • 私の好奇心

さて、生活が有り難いことに安定している今、はっきり言うと、「生活に即さないことに夢中になる」余裕が私にはたくさんある。でも私の好奇心を閉じ込めている檻の鍵は、だからといって簡単には見つからない。私は私の知的好奇心が一向に発動してくれないことに、ずっとずーっと、ジレンマを感じていた。

しかし待っていても仕方がないのでとりあえず、今最も興味があることのうちの一つ、息子が言語を獲得していく過程を発達心理学、認知科学の観点から研究した「ことばの発達の謎を解く」(今井むつみ*ちくまプリマー新書)を読み、すでに貪るように読んでいたアドラー心理学やモンテッソーリ教育についての知識を息子(1歳4ヶ月)の子育てで実践し始めた。

褒めない、叱らない、命令しない、決めつけない。

この4つを避けて赤ちゃんと接するとどうなるかご存知ですか。
私のような人間は、まず、喋ることがなくなるのです。

  • 好奇心の実践

保育園に迎えに行く。私には、彼の荷物をまとめて彼に靴下とジャンパーを着せて外に出る、というミッションがあるのだが、以前ならそのミッションをすぐに行い、「抱っこ」して連れて帰っていた。

しかし息子は最近歩けるようになっている。なので、「抱っこ」は「世話」というポジションから、一歩間違えると「私の意思を無理矢理発動させる行為」となってしまったのである。無理に抱っこしない。「早くしなさい!」と命令もしない。「置いていくよ」と脅さない。「ちゃんと自分で履けたね」と褒めない。でもこっちはこっちで、先生に残業させるわけにもいかないというジレンマがあるので、早くこの部屋から出したい。難しい!!何より時間がかかります。

とはいえ、ものすごく難しいことではあるんだけど、自分の好奇心と彼の好奇心が、それぞれあることを認め、それを邪魔せず、お互いの関心がクロスするかもしれない時に言語を使い、自分が何かをしてもらったら感謝する、それ以外で相手をコントロールするための言語を使わない、という形を実践していく中で、

これが、西尾さんの言うように、大人同士でもできたら最高だなあ、と思ったのだった。

子供が、叱られたり命令されたり褒められたり、大人が未来を予測して(勉強のできる子になって欲しいとか、まともに育って欲しいとかであっても)コントロールするために言語を使う大人に育てられた場合、自分も大人になった時、言語をそういうツールとして使用するのではないか。他者をコントロールしたり他者にコントロールされたりという関係が「言語」によって、なされてしまう。それが普通になってしまう。でもそうすると、やられている方は、怒られないように相手の機嫌を伺うようになってしまう。褒められても言語の裏を考えるようになってしまう。何より他者にコントロールされることでしか、自分の言動を決められなくなる。

でも、好奇心の掘り下げのために言語を使う大人と共に育った時、子供もまた、真似をして言語をそのツールとして使い、罪悪感など感じず、夢中になれるのではないか。そして言語を、他者のコントロールのために使用することがなくなるのでではないか。

好奇心と言語の間には因果があるということを、彼に付き合う中で私は教えてもらった。そして、内臓語が並行してあったために、それがはっきりと言語化され、私の脳にくっきり刻み込まれるという機会を得たのだった。

  • 私の執筆中の戯曲について

私が今書いている戯曲は、一人の女性が、たくさんの家族を殺し合いをさせることによって崩壊させていった、と言われている事件を基にしている。その女性にさえ出会わなければ、みんな普通に家族生活を送っていたのではないか、と言われることが多いのだが、私にはそれが不思議でならなかった。本当にそうだろうか。確かに彼女がいなければ事件は起きなかったかもしれない。でも、彼女一人でも、やっぱりその事件は起きなかったと思うのだ。

人は関係性の中で生きている動物で、人のキャラクターは関係性の中で決まっていくと考えると、彼女とその周りの人たち、すべての要素が揃って、あの事件になった、と言えるのだ。

私は、その事件が起きた要因の一つとして、主犯となったその女性に、「知的好奇心」がなかったこと、目の前の「他者」に興味を持ちすぎていたことが挙げられるのではないかと考えている。それこそが私との共通点でもあり、私の関心どころなのだ。

関連本を読んでいくと、彼女は「買い物」と「パチンコ」、そして家族との関係づくり以外に、やることがなかったそうだ。そりゃそうだろう。生活以外に興味が持てない。彼女自身、両親の機嫌を伺い、言語の裏を読み取りながら生き残ってきた。彼女の世界はとても狭いものだった。買い物とパチンコ、そして家族いじめに依存し、それらを続けるために、金を稼ぐために、あるいはストレス発散のために、家族に殺しあいをさせていった。

最も注目すべき点は、彼女は言語を「他者をコントロールするツール」として使いこなしていたことだ。彼女にとってはそれは「コミュニケーションツール」だったのかもしれない。でもコミュニケーションという大義名分で、彼女は次々に人をマインドコントロールしていった。

また、多くの被害者は、コントロールしてくれる彼女に吸い寄せられていったように見える。だって、彼女自身は、体力もなければ権力も武器もない、ただの中年女性なのだ。それなのに誰も彼女に逆らえず、怯えている。これもまた、言語でコントロールされることに慣れていたせいなのかもしれない。

念のために書いておくが、私は「被害者にも非がある」ということが言いたいわけではない。ただ、特に最後に残った「共犯者」と呼ばれる人々は、生き残るために彼女に迎合し彼女をサポートし、彼女に絶対服従した。そうしなければ死があったからだ。そこでは、壮絶な、サバイバルが繰り広げられていた。私が言いたいのは、彼らのサポートなしでは、主犯の女は、人を殺すことなどできなかった、ということだ。

人は誰でも憎しみや悲しみを抱えている。その疼きを抱えながら、生きている。でもそればかりにフォーカスしてしまった瞬間、自分の、他者の存在自体を許せなくなってしまう。主犯の女性は自分の憎しみに常にフォーカスし、他者の憎しみをうまく取り出してフォーカスさせることで殺し合いを促した。

リーダーに迎合し、サポートし、服従を誓う。これは命の危険がなくても集団の中でよく起きる現象だ。そこには「言語」が大きく関わってくる。そしてそういう「言語の使い方」は、自らが幼少期に言語を獲得していく過程で経験したことが、割と大きく関わっているのではないかと考える。人間が自分の知的好奇心を自由に羽ばたかせるためには、羽を絶対的に安心できる場所で十分に広げきった経験がないと難しい。羽を広げる機会がなかった子供は、大人になってからでも、羽を広げ、飛ぶことはできるのだろうか。

  • 集団と言語

さて、私が今、夢想している集団とは、言語を、自身の知的好奇心を掘り下げるためのツールとして使用している人々の集まりだ。それぞれは自分の研究対象に興味があり、それを掘り下げていく途中で、他者の研究とリンクする場所が出てきた時に、初めて他者と出会い、助け合うことができる。他者の研究を通じて他者に興味を持つので、その人を叱ったり褒めたりその人に命令することは何一つない。またリンクが終われば、それぞれはそれぞれの研究へと戻っていく。

もちろん、そんなにシンプルな集団が作れるとは思っていないんだけど、こういうのがいいなあ、と一つ、はっきりさせると、それを目標にして自身の言動が統制されていくように思った。

しかし私の羽はまだ、広げる機会がないまま、鍵のなくなった檻の中で折りたたまれてしぼんでいる。自分が羽ばたけないのにそんな集団を夢想するなんて馬鹿げているだろうか。

  • 小川さやか氏

「その日暮らしの人類学」の著者であり人類学者の小川さやか氏をゲストに迎え、勉強会を行った。わたしにとって小川さんとの出会いは、まさしく「研究に夢中になっている人」との出会いであった。彼女は自分の研究に夢中で、彼女の研究と私たちの興味がリンクするところがあれば、目が輝くし、そうでなければ特に興味を示さない。それが気持ちよく行われている方だった。また何かお呼びして、お話を伺いたい方の一人である。

  • 砂連尾理氏

砂連尾さんは、同じ京都で活動していながら、初めてお目にかかった方だった、彼のインタビューをそれぞれ文字起こしして突き合わすという作業を勉強会でやった時に、あれだけ論理的な方なのに、発語のほとんどが「あのーそのーでね?ていうか、まあつまり・・・」といった、意味のない感動詞に言語が支配されていることに、衝撃を受けた。
文字起こしをして、それを他の方と突き合わせて、一晩たって考えてみると、そう言った感動詞を多用することで、彼は断定を避け、笑いを呼びながら会話に揺らぎを発生させているのかもしれないと思い始めた。その実、頭の回転の早い人で、おかしいことをすぐにおかしいと見つけることのできる人なので、そう行った「ただしさの刃」で相手を傷つけないための工夫なのかも。

ちなみに文字起こしをして発見したことは、自分がいかに「人にどう見られるか、思われるかを考えていないタイプ」で「雑」で「取扱説明書を読まないタイプ」であるか、ということだった。それが、私の戯曲にもよく現れている習性だとも思った。「編集したくない」という敬意を持つ割に、思い込みの中で文字を書いている。まず物事をそのまま取り出し、そこに自分なりの解釈を加えていった和田ながらさんのインタビュー記事を読んで、衝撃を受けた。そうそう、そういう風にしたら、読みやすいよね、と思うのに、自分ではできなかった。経験の差もあるとはいえ、これには驚いた。

  • リサーチメンバー

林くん、山本さん、和田さん、西尾さん、堀越さんと私が、最終的に頻繁に顔を合わすメンバーとなったのだが、私は、自分が自分の作業に没頭すればするほど、皆に好感を抱くことに驚いた。彼らは私よりも10ほど年下の若者だが、私よりも知識があり、頭の回転が早い。彼らはそれぞれ自分の興味に夢中であり、お互いの違いを認め、尊重し合う力を持っていた。勉強させてもらうことばかりだった。そういうことが、相手ばかりに注目していた頃より見えてきたのだった。

芸術センターの堀越さんは、これまた一際お若いにもかかわらず、良い感じでタイムキープやまとめをしてくれた。正直言うと京都芸術センターのコーディネーターたちは、仕事量が半端なく、身を粉にして働くオーバーワークな方ばっかりだと感じてたんだけど、彼女は勉強会中にちゃんとご飯を食べれる肝の据わった方で、かつ、物怖じしないので、そういうタイプならここでもやっていけるんじゃないか、としみじみ思った。そういえば私は芸術センターに関わって、もう20年近くになるんだ。

今までで参加した芸術センターの催しの中で、最も楽しく、素晴らしい機会となった。

  • これから

「想像力」は簡単に被害妄想に結びつくし、「思いやり」は強要や押し付け、暴力に発展する。よく言われる「相手の気持ちを考えなさい」という声かけには、今や恐怖を感じるばかりだ。私は相手の気持ちを考えるのが得意だと思ってた。でもそんなの得意になってどうなるんだ?そんな危うい幻想にもたれかかって、公私にわたるパートナーと共倒れした経験が幾度あったことか。

御所で息子が遊んでいる時間。私は彼の安全だけに注意を払い、あとはぼうっとさせてもらう。風が吹いて、真っ赤な落ち葉が舞う。息子が目を丸くして風を見る。この揺らぎの中で、羽がひとりでにふわっと浮いた時、私は自分の羽が閉じ込められている檻に、天井がなかったことに気がつくのかもしれない。

私はこれから、自分の興味を掘り下げていく中で、それを通して他者と出会いたい。私の穴を一緒に掘ってくれる人ではなく、それぞれ掘り下げていった先に出会う大きな穴で、お互いに持っているものを見せ合って、交換したり言葉を交わしたりする。情報交換をしたら、またそれぞれの穴掘りに戻る。
そういう作業を、創作仲間や、息子や、夫として行きたい、と思ったのだった。

それにしても、私がこういうことばかりやってるのを、温かく見守ってくれる夫に感謝だ。

 

内臓語にもぐる旅共同リサーチプロジェクト@京都芸術センター2017年8月〜11月

 

笑の内閣「名誉男子鈴子」

とりあえず大千秋楽が終わってからアップしようと思って書き留めておいたものです。
思考を整理するために書いております。

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アフタートークにお呼ばれしたので、観に行きました。
チラシを見たときに、いつものチラシはあんまり好きじゃないんだけど、今回のは知り合いの中谷和代さんが中央にばーんと出ているようなもので、嫌な感じはせず、目を引いた。中谷さんの作る芝居とあまりにも違う笑の内閣。その組み合わせの妙が興味を引いた。

芝居が始まって、1時間40分、退屈だと思う瞬間はなかった。話はベタに進んで行くし、ベタなものは楽チンなところが好きだし。客席が湧いても全く笑えないし、笑えないのはやっぱり変わらずか、と思っていたけど、高校の先生(延命聡子さん)には笑わされた。あの人はコメディエンヌなんだな。

終わって、トークの時に「私のリテラシーが上がったので、楽しんで見ることができました」と述べた。以前は全くダメだったのに、拒絶反応が出なかったからだ。それはきっと、相当に身構えてみたせいもあるし、トークに出るという前提もあっただろうけど、何より、「メタコミュニケーションに気を取られず言葉の内容をしっかりと聞く」という訓練だと思って観たからだ。

私は、ついつい、人の仕草や体の動き、その場を支配する空気に気を取られ、言葉を聞けなくなる。それは対人でもそうだし、観劇でもそうだ。

笑顔で「よろしくお願いしまーす」と言われても、その人の体が拒否してたら、嘘をつけ、と思ってしまう。

芝居をしている俳優の身体が意図せずぎこちなかったり、何の間かわからない間が意図せずあると、一気に冷めちゃうのだ。そのセリフ、誰に向かって喋ってんの?とか、今回も山ほど思った。

だから、その部分がしっかり作られている芝居に惹かれるし、人間も、その部分に嘘がない人とは付き合いやすい。(てか、その部分に嘘があるかどうかなんて結局誰にも見極められないんだから、私が傲慢なだけなんだけど)

閑話休題。
そういう自分の反応に対する対策を練っていたので、割と言葉の意味の部分で楽しめた。俳優さんたちに皆、好感が持てたのも良かったと思う。誰も悪い人などいない。市長を演じていた人すら愛らしかった。そういうところは、高間節だなと思う。

トーク後半ではパンフレットに書いてあった高間くんの人間関係についての苦しみみたいなものにゴシップ的に言及し、私は高間くんが、割と表立って毒舌を吐く割に、自分が体裁を壊されると弱い、ということを知った。人間らしい面が見れて私はよかったけど、まあ、そういうの、お客さんはどうだったのかな。

で、終わって、もちろん帰れば我が子の時間があるわけで、芝居のことを忘れ、1日経ち、一人になってふと芝居のことを思い返したわけだが、

1日たっての感想としては、「女性の権利を叫びながら実際は女性を差別している」という言葉の通りの芝居だったな、ということだ。

私はそのキャッチフレーズが、実際にはどういう人間関係の拗れに発展するのか、ちょっと興味あったんだけど、なんというか、そのまま、だった。脚本の段階で、複雑さがまず、全くない。市長は悪者だし、市長の二番手は嫉妬にまみれているし、建設会社の社長は自分の利益だけを考えている。女っぽい甥は女性的だし、大学生は「なぜ?」と疑問を持つ。確かにそうなんだけど、それ以外の部分が垣間見えない。(そういう意味でいうと、池川さん演じる麦部がよく分からないキャラとして一番リアルだったと思う)中谷さん演じる鈴子も、表情から発言から、何から何まで非常にカリカチュアされた演技をするのだが、それが決して演劇ではなく事実としてあり得るのだと昨今ニュースで知らされた以上、

高間氏のオリジナリティはどこにあるのか、という思いが湧き上がってきた。

女性がのし上がっていくには、結局支配している男性の力を借りなくてはならない、という道は確かに現存するし、ものめずらしいものではない。ただその仕組みをそのまま立ち上げるだけでは、私には物足りない。ドラマが見たい。高間くんは、そんなもんには興味ないのかもしれないが。

私は、現存する人物や事件、世の仕組みを目の前に置いて、その場を借りて、一筋縄ではいかない複雑な人間を立ち上げ、その人間たちがどんな風に関係を紡いでいくのか、それを描く演劇が好きみたいだ。そういう意味では、最後の、娘が母を支えて家に帰ろうという部分だけは、わずかにオリジナリティを感じたが、その一瞬のために存在した他の一切の紋切り型キャラクターが不憫な気がした。

ただ、ただですよ、こういう紋切り型のキャラクターだけを出して、ド派手な演出で、2時間弱を楽しませ続けるというエンターテイナーを目指すのであれば、ぜひこのまま突き進んで欲しいと思う。そこを買ってるお客さんも多いだろうし。だが、もしそうだとしたら、1枚1万円前後の値段がするエンターテイメントを何本も何本も大劇場で観ていただきたいとも思う。そしてできれば、力のある劇作家と組む。別にその人たちの真似をする必要はないけど、今はただ、事実として、その面で、負けている。

高間くんを見ていると、自分自身をネタにし、身を粉にして生きているのがわかる。実際に会って喋ると、物腰の柔らかい、優しい男性だ(目は合わしてくれないけど)。女優に次々手を出す劇作家、演出家とは世界が違う。奥さんが大好きだとパンフに書く高間くんが、私は好きだ。

だから今後も、活躍して欲しいなと思いました。

ああ、頭の中が整理されました。
こんな機会をありがとう。笑の内閣の皆さん。

刃更新のお知らせと抱負

またまた極私的な日記を。最近、日記はクローズドで書いていてそれがまたすごく良くて、そうすると表に出すことがほとんどなくなってたんですが、恥も掻かなくなった分、得るものもなくなったように思っています。

というわけで。

最近は、2週間先ぐらいまでのタスクをピックアップし、時生ちゃんが保育所に行っている9時から18時までの限定された時間になんとかそのタスク(台本執筆含め)こなしている毎日です。ああでもこの中に、晩御飯の仕込みと洗濯掃除も入っていますので、実質7時間です。

18時から朝の8時までは、基本的に時生ちゃんを見て、過ごします。「見て」というのは、「見つめて」という意味です。以前は時々アイパッドを見たりもしてましたが、今はもう、完全に見なくなりました。仕事は溜まりますが、仕事の面で何か不安定になることがあっても、時生という場所に行くことで、私がすっきり、元に戻るのです。

これは本当にありがたいことで、面倒を見ているのではなくて、元に戻してもらっている感じです。1歳の時生ちゃんはいずれ、私を抱きしめてくれたり、朝起きた時になでなでしてくれなくなるんだ、という刹那の悲しみも抱えながら、とりあえず会員限定販売のライブのチケット手に入れたみたいな感じで、特別感を味わせていただいております。まだちっさいので怒ることもないし。子供がこんなにすごい影響力を持っているなら、もっと早く産めばよかった、と思ったりもしますが、今だから、こう思えているのかもしれません。

さて、芝居始めてから、2012年ぐらいまでの12年間で、怒ったり泣いたりとんがり尽くした結果、その時一番大事だと思っていたものをなくし、そこから刃を抜かれた狼みたいに、おとなしくなってました。刃がない狼、つまり「犬」のような状態です。

で、犬として、ここ5年ほど、生きてきて、私は残念ながら、今やってるようにニコニコ人に尻尾振るタイプではないな、ということがつくづくわかり始めました。「化けの皮が剥がれた」という表現がぴったりです。

でも同時に、ただ闇雲に噛み付く狼ももう、やだな、と思っている自分がいて、機能の高い刃を持つ尻尾フリフリ犬ってどんな感じかなー、いや、それだとやっぱり怖い、とか、犬の着ぐるみ着た殺人鬼を想像してしまってぞぞっとして、でも、パンダみたいに見かけは可愛いけど実は猛獣、というのもまたちょっと違うし(なんせそれやと近寄れへんし)、ライオンもゴリラも怖いし、ウサギは可愛いしカマキリは臆病だし、で

良い生きものがあったら、また書きます。

でも、こういうの若い頃からできてる人ほんと尊敬するんだけど、ちゃんと刃があって、それでいて、いつもニコニコしてるってこと。ある程度近づいても大丈夫で、でも物事の真偽はしっかりと見極め、己がいかにマイノリティであるかを知る人。こういう人にトランスフォームしたいなって思ってる自分が最近います。

もちろん刃がなかった頃の私も割と良かったと思っていて、信念とかグラッグラだったけど、夫とも出会え、子も生まれ、何より最初の12年間の時と今とでは付き合う人は全く変わっているわけで、それはやっぱり、刃がなかった頃を経てのことで。

ただ、刃がなかった時期に仲良くなった方々の8割は、今、離れていってるという現状も踏まえつつ、でも、よかったと思ってます。

以前の刃は人を傷つけるための刃だったけど、新しく手に入れた刃は人を救うための刃なんです。

という良いセリフは、私の脚本には絶対出てきません。

で、ですよ、こういう、自分の内面ばっかりに興味があるような状態だと、ずっと、私小説的な芝居打つしかないんだろうなーとか思っていたんですが、まあ、そんなに激しく人を傷つけることもだいぶ減ったし、その分、それが創作に転換できるようになってきたので、これからの自分の創作がやっぱり、楽しみなんですよ!

誰かをまっすぐ助けられるほど、まだ力はないけど、フィクションの世界を立ち上げることで、誰かが癒される、というサイクルを生み出したい。そこの力が十分でないままに、自分の能力を切り売りすることには、まだまだ没頭できない、ということがこの5年でよくわかりました。

会社を経営することになり、会計士さんにアドバイスいただく中で、そういう思いがより、強くなってきました。

もちろん以前から目指してはいたんですよ。他者に送り届けること。エンタメ系の方達とは、逆回りでそこを目指しているんだ、という自負については、それこそ20年前からあります。でも、今、より明確に、「創作」ということが、私の武器なのだ、と今、思ってます。

よかった。ここまで書けた。

でも、自分で運転しない人には興味ありません。誰かを車に乗せるのではなく、すでに自分で運転している人と協力しながら、大きな絵を描いていけたら良いなあと思っています。

 

 

合同会社stamp設立のご報告

この度、合同会社stamp(スタンプ)を立ち上げましたことを、ここにご報告いたします。

stampの由来は、

「safari・P」のSとP

「toriko・A」のTとA

そしてmoderation(中庸)

です。

基本的には、山口茜の劇作、演出作品を上演するトリコ・Aと、固定のメンバーで創作することを目的とするサファリ・Pの演劇上演を活動の主軸としています。

ただ、舞台芸術の表現としてはどうしても偏ったものになるので、人の集まる会社としては、中庸でありたいと思い、moderationを入れました。

もちろんstampの元の意味、足を踏み鳴らす、深く刻み込ませる、切手、という意味も込めています。stampから皆さんに何かが届きますように。そしてまた、皆さんからのレスポンスをしっかりと受け止めることのできる団体となるように精進いたします。

これからもどうぞ、皆様、よろしくお願い申し上げます!

散漫とダンス初稿

私には集中力がありません。台本を書いている時も、いろんなことをします。いろんなことを考えます。行ったり来たりしながら、少しずつ、少しずつ、文字を増やしたり削ったりしています。

若い頃は、何かを突き詰めて、我を忘れて集中することができないことをずっと悩んでいました。それができる人に憧れ、ずっとそうなりたいと思ってきました。

集中するために、早起きしたり、夜中まで起きてみたり、ヨガをしたり走ってみたり筋トレしたりストレッチしたり、ツボを押してから白湯を飲んだり一人でパスタを湯がいて村上春樹になりきったりしていました。ビタミン類の摂取も、玄米菜食にも断食にもチャレンジしました。痩せたいのと集中したいのを混同しまくりながら頑張ってました。

でも本当に、全然効果なし、でした。というよりむしろ「悪化」していました。というのは「環境が整っていないから」という理由で作業に入らない私がいたからです。そんな私をいつも「集中するためでありますので」と、私の中の小さな執事がたしなめてくれていましたが、台本が書けていないという事実を目の前にするといつもコソコソどこかに隠れて行くのもその執事でした(この話は今作りました)。

でも、最近、1歳児を育てながら「私の家族」を書くことになって、色々諦めがつくようになりました。なぜなら1日の大半を、息子との時間に費やすからです。1歳児という大自然はすごいです。絶対にパソコンなんか開けません。さらに彼が寝てからの時間も、最近使えなくなってきました。うちの息子は、私が隣に寝ていないと30分おきぐらいに泣くのです。寝ているのにいないことに気がつくんです!大自然ってすごいわね!

というわけで現在は、日中の、保育所が空いているありがた〜いお時間の間に、私は集中できないまま台本を開き、いろんなことを同時に行いながら、少しずつ、少しずつ、エンジンをふかしていきます。エンジンがかかりまへんなーと言いながら、それでも台本を開いて、そのことを考え始めるしかないというわけです。

皮肉なことに、いつもだいたい次の予定の30分前にエンジンがかかります。そうなってからでは時すでに遅しなのですが、未練がましくパソコンにへばりつき、息子の夕食の準備が遅れたりしています。厄介な母親です。

でも、私は24時間あってもせいぜい四百字しか書けません、と割り切ると色々わかることが出てきます。2ヶ月半ぐらいあれば3万字書けるな、とか。普通の掛け算ですが。

とはいえ17時になったら保育園にお迎えに行く、というミッションが週6回必ずあるために、最近逆にエンジンがかかりやすくなったかもしれません。時間は無限にないのだ、という事実に気がつくことが、私にとって特効薬だったのかもしれません。

憧れの集中さんとは結ばれませんでしたが、私のことが大好きな散漫さんと、今はすごく素敵な毎日を送っております。散漫最高!「散漫とダンス」っていう本書こう、いつか!

 

アトリエ劇研と時差

今日はアトリエ劇研最後の日。私は夕方からじうのご飯と夫のご飯をそれぞれ作り、じうのご飯はお弁当にして保育所へ向かった。じうは私を見て、手を叩いて喜んだ。私たちは自転車に乗り込み、40分ほどかけてアトリエ劇研へ向かった。

道中、豆乳ととうもろこしと一口ハンバーグを食べながらじうは初めての長丁場のサイクリングに挑んだ。サイクリングには最高の季節になりました。

劇研に少しだけ顔を出したんだけど、2週間前の最後の公演の際に散々遊んだ場所だったせいか、私と離れてもビクともせず、じうは劇研を歩き回った。私のことも、声をかけてくれたいろんな人のことも、目に入らず、その場所がその日で最後であることも知らない彼は、何度もこけ、劇場の扉をこじ開け、自動販売機をバンバン叩いていた。

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その後じうを夫の職場まで連れて行き、夫にじうを預け、そこから単身三条商店街へ向かった。観たのは時差『隣り』@green&garden。劇研制作だった長澤くんが代表を務めている。

帰ってから読んだパンフレットに「この映画がもし、これ見よがしな悲劇によって皆さんを楽しませようとしたのであれば、私たちに苦情をお願いします」と書いてあった。その通り、泣けるところなんぞ一切なかった(泣くつもりもなかったが)。むしろ集中しないでね、と言わんばかりの手ぶれ感満載の、でも時折マジで笑ってしまうシーンありの、そしてちゃんと私の感じた違和感を回収してくれる映画になっていた。

回収してくれることが私にとってどういうことかと聞かれたら、それはやはりカタルシスであったように思う。要するに映画の中に出てくる、統合失調症による「幻聴」や親族による病人への「感動的なセリフ」は、一瞬、ガリガリ君にクリームシチュー味が出た時のような、いやもっとだな、キシリトールガムにおでん味が出てしまった時のような違和感を感じさせるのだが、それはこの主人公である統合失調症の桜ちゃんが、元演劇部であることと関係している。つまり友達や家族に「セリフを言ってもらっていた」ことが後々分かるのである。彼女は高校生の時演劇部で、今でも演劇がやりたいと思っているらしい。そして「ノブ子に愛を」というタイトルで脚本・演出を担当し、友人と映画を撮った。その「セリフ」なのである。

ちなみにこの映画は城間典子さんという方が編集をしていて、これは彼女が仕掛けたものなんだと思う。桜ちゃんは統合失調症という病を抱えているからこそ、演劇という行為で自分を癒そうとしている、そういった割と手垢のついたメッセージまで内包している仕掛けだった割に、なんだかフレッシュで、気持ちが良かったのは、おそらく、桜ちゃんが脚本・監督をした作品を、城間さんが編集したからなんだと思う。

パンフレットを読まずに映画が始まった瞬間から、「統合失調症をテーマにされると妙に冷静になってしまうわ」という自分と「精神病って覗き見したくなるよね」という自分を発見していたのだが、それはやはり私自身が、20代を精神的に非常に辛い状態で過ごしたせいであり、やはり40歳の今、それを乗り越えてしまったというのか、忘れてしまったというか、つまりそういった「精神的な問題」から距離ができてしまったせいだろう。だからもし、ただ、統合失調症の女の子の1日を、下手な演技で見せられてたりしようもんなら、多分、退屈していたと思う。いや、退屈というより、知ったかぶりな自分が楽しむことを邪魔していたと思う。でも見終わった後、そんな知ったかぶりはする必要がなかったし、もっとおかしくなってる瞬間を見たかった、とか、幻聴の内容を詳しく教えてほしいという感情も生まれてこなかった。

主人公の桜ちゃんの顔に中毒性があるのである。最後に出てきたときなんか、全然普通じゃないように見えるその顔が、とても綺麗で目が離せない。時々、静止画を見せられて延々と会話だけを聞かされるシーンが幾つか挿入されていて、「待て」の状態が続くので、その後に桜ちゃんが出てきて喋ってくれると、砂漠の中で水をもらったような状態とでも言おうか、とにかく桜ちゃんの動く顔に夢中になってしまうのである。やらしい仕掛けだと思った。まんまと乗せられてたけど。

ていうか、今でも桜ちゃんにちょっと、会いたくなっているぐらいだ。うーん、顔が魅力的だったと書いたけど、結局彼女の言動の中に何か惹かれるものがあったんだろう。

手相占いのおばさんが「28歳までに資格を取れ」って言ってたのがツボだった。桜ちゃんの「演劇」という言葉を聞き取れてなかったのもよかった。20代の頃に幾度かネズミ講やエステや宗教に勧誘されたことを思い出した。私は喧嘩を売って撃退してたけどね。桜ちゃんのような素直さや優しさはなかった。

帰宅したらじうは寝ていて、夫がご飯を食べていた。劇研のことをもっと書こうと思っていたんだけど、ほとんど時差の話になってしまった。

結局、劇研がなくなること、まだ実感がわかないままだからだと思う。またいつか、あのあたりを偶然通った時に、そこにあったはずの劇研がなくなっているのを目にした時に、何かこみ上げる日が来るのだろうか。とにかく今は、こんなにもお世話になったのに、何も感じない。ただあの場所を作ってくださった波多野茂彌さんと、あそこで出会った全ての方に、感謝している。特にディレクターを務めた田辺剛さんとあごうさとしさんには、感謝の思いしかない。ありがとうございました。おつかれさまでした。

 

 

トリコ・A次回公演は9月1日に!

9月になりましたら、トリコ・Aの新作公演のご案内をいたします。しばしお待ちくださいませ。

いよいよ8月も終わりにさしかかり、虫の音が聞こえてくるようになりました。朝晩、少々冷えますね。皆様、季節の変わり目お体ご自愛ください。

新劇場設立のためのクラウドファンディングについて

ツイッターで「新劇場設立のために、若い演劇人から搾取している」とか「面白い演劇やってたら勝手に篤志家が寄付してくれるやろ、なんで自分らでお金出し合ってるのかわからない」とかそういう意見を読んで、ついつい、喰ってかかってしまって、冷静なフリしてしつこくしつこく問いかけてしまい、

朝5時に息子に可愛い笑顔で起こされ、
「またやってしまった」
と激しく後悔してます。

世の中の人、最初はみんな、こんな可愛い赤ちゃんなんやなあ。
愛おしいです。

でも言ってることはやっぱりおかしい。
「搾取」?クラウドファンディングは搾取なのか!?
「面白い演劇やってたら寄付される」それは、「本当に美しければスカウトされる」というようなやつですか?「待っていれば白馬の王子様は現れますか?」

あかん、また熱くなる。すいません。
ツイッターで良かったです。ツイッターやと声の調子が伝わらないから。録音もされないし。

さて、そんな私ですが、新劇場が設立されたらオープニングイベントでこけら落とし公演をさせてもらえるような約束は、していませんし、そんな期待もしていません。

私がなんでこんなに熱くなるかというと、一番に思い当たる節は、

私が、3年間、アソシエイトアーティストとして劇研で公演させてもらってきたから。

です。

東京や大阪でまともに劇場借りてお芝居しようと思ったら、劇場費だけで数十万円かかります。
劇研は、私たちに、その5分の1ぐらいのお値段で、劇場を貸してくれました。その上広報を手伝ってくださいました。お客さんまで呼んでくれたのです。

それがどれだけ稀有なことか。

だから私は、応援したいと思いました。
すでに多くをいただいたので、それをお返しするような気持ちです。
でもこれは、誰かに強要するものではありません。
私はこういう理由で寄付がしたいけれど、ご飯を食べるお金もないような若い演劇人に、「払えよ!」なんて、全く思いません。ねえ、思うわけないやん、だって、持ってないんやろ?

払えへんやん。

私もずっとそうやったし、、ああ、誰かを助けたいのに、私がまず、持ってない、と何度も自分を責めてきたものです。誰かを助けるには、まず自分が豊かでなくてはいけないんだ、と反省しながら、それでも演劇をやり続けてきました。

だから、気持ち悪い話ですけど、最近「お金ない」とつぶやいている人を見ると「うちに来てご飯を食べて欲しい」と毎回マジで思ってしまいます。気持ちわるがられるのが怖いので、言いませんが。

私の枯渇しない母性は、ほんまに、自分でも気持ち悪いし厄介です。
それはさておき、

何か協力したいのに、今お金がないからできない、というジレンマはわかるけど、それを「搾取している」と言ってしまうのは、あまりにも、あまりにも、このプロジェクトの真意を理解していないと言えるでしょう。

このプロジェクトの真意はなにか。

その前に小話。私は昔、上の弟の結婚式に招待された際、嬉しすぎて我慢できなくなり、どうしてもある程度のお祝いをしたいと思いつきました。

私と弟二人は、とても貧乏な家で育ちました。お小遣いなどもらったこともなかったし、一人部屋なんてなかったし、布団の下にはカビが生えていたし、弁当はいつも真っ白だったので、母の強烈な愛だけを栄養に、私たちはなんとか、大きくなりました。という苦労を共にしておりましたので、弟が結婚するとなった時、私は、10万円を包みたい!と思ったのです。このあふれんばかりの祝福の気持ちは、お金に変えられる!そう思いました。

それで、すでに6時から17時までバイトをしていたのですが、そこにさらにバイトを一個追加してほとんど寝ずに働き、そのバイト代2ヶ月分ぐらいを全てお祝い金に変えました。

もちろん、ツケはしっかり回ってきて、バイト中何度も寝てしまい、同僚に告げ口され偉い人に呼び出されて、「寝るならやめてもらいます」と言われたことは今でも忘れられません(当たり前)。でもその時に私、弟に

「弟よ、このタイミングで結婚式をするなんて、貧乏な私から搾取する気ですか」

とは一ミリも思いませんでした(当たり前)。

別に、寄付したいんならバイト増せよ、と言っているわけではありませんので勘違いしないでね。ただ、「お金がないから寄付できない」というロジックは破綻していますよ、ということです。寄付したいと本当に思ったらバイトでもなんでもして、寄付できます。お金がないから寄付できない!搾取するな!と怒ったあなた。あなたは、今、お金がないことに、疲れています。精神的に参っているのです。わかります、お金がないと参るから。余裕もなくなるし。だから休んでください。マジで。キモいけど、よかったらうちにご飯食べに来てください。そしてパンを買うお金125円を80日貯めたら、1万円寄付できますから。

さて、あごうさんが、石油王で、劇場を作るからお前ら金出せ、と、黒い眼鏡と黒スーツの男たちにカゴを持って一劇団ずつ回らせたら、私も「搾取や」と感じます。でも、彼もまた、自分の公演の計画をする時には、おそらく予算の少なさに苦しみながら、1公演ずつなんとか終えていく、立場であることを、知ってください(たぶんやけど)

そして、そんな状況でも、この「劇場が全くない」という状況を変えようと、自ら立ち上がったのです。そのことを、まず、理解してほしい。私はあごうさんの妻でも、あごうさんの親友でも、あごうさんの手下でもありませんし、あごうさんもまた、こんな妻は嫌だろうと思うのでたとえ話をしただけでもいたたまれなくてたまりませんが、それはさて置き、私は単に、彼と同じ世代の京都で演劇をするものとして、予測でものを言っております。(ですので違ってたら謝ります)

だからこそ、彼の心意気に感動したからこそ、この、劇場が全くない、という状況を変えようと立ち上がった彼、彼らに対し、「面白くない芝居をやり続けてきたせいだ」と思っている人がいたことに、愕然としました。

あんた、もっかい聞くけどこのプロジェクトの真意、理解してる?

てか、面白い演劇て何?

あーおっきい声出すと疲れるわ。

さて、面白くない芝居を誰かが見た→もう劇場なんか絶対行かへん、とその人は思った→そういうお客さんがたくさんいて、小劇場にお客さんが集まらなくなる→と→劇場が潰れる、わけではありません

このロジックもベロベロに破綻してます。

小劇場にお客さんが集まらないから劇場が潰れる、ということは、ありえません。だって、お客さんが集まらなくても、やりたい人がいれば、その人たちは劇場にお金を払って、演劇を続けていくからです。実際、客席穴だらけでお芝居されたことある方も、いらっしゃるんじゃないかと思います。劇場は、お客が入る入らないに関わらず、劇場費払ってくれたらやらせてくれるというのが、一般的です。もちろんお客さんが入らなくて毎回ノルマが厳しくやめていく人も多いでしょう。それでも、やりたい人は毎年現れます。そういう人がいる限り劇場はつぶれません(ちなみにこれとは別に、お客さんが入る劇団だけを呼ぶ劇場もあるし、実際に客席がバカみたいに広くて現実問題お客が入らないとできない劇場もありますがこれらはまた横に置いておきます)

では、今、劇場が閉鎖される理由は何か、というと、「お客さんが集まらないような芝居ばかりしているような劇場は要らない」と多くの人に思われている、ということがあげられます。

「費用対効果」が一見、薄いように見えるのが、芸術の哀しいところです。政府が芸術や教育に比較的お金を割かないのは、当然、費用対効果が薄いからです。それで、もっと客の喜ぶものを見せないとあかんわ、と言われたり、思われたりしている、という現状があります(教育界では、もっと学生の喜ぶ授業を、とかいう恐ろしいことになっているそうですが、これもまた横に置きます)。

そういう風に思われている、ということについて、その印象を覆すために、確かに、劇場は動かなくてはならないのが現状です(本当は政府がやってくれたら一番いいんだけどね)

で、例えば、東京に、こまばアゴラ劇場という、とても私たちにとってはありがたい劇場があります。あの劇場も、劇研と同じように、手厚い待遇で私たちにお芝居をさせてくれますが、あの劇場のラインナップ剪定の基準は、将来にわたって支援会員が増えていくかどうか。

劇場のラインナップについて

しかし芸術監督の平田さんは、支援会員が増えていくようなものを選ぶ、と言いながら、その実、あらゆる多様なものを揃えます、と書かれています。その中には人気の高いものもあるし、それ以外のものもある。そうなのです。いろいろ観れること、を重視されておられます。その中には、今の段階では、お客さんがあまり寄りつかないようなものもあるかもしれない。でも、それはもしかしたら、将来的にものすごく重要な表現かもしれない可能性を「摘まない」で「育てる」つもりで、あの事業をされておられると、私は感じています。

京都にできる劇場も、おそらく、そういう面は真似ていくことでしょう(知りませんが)。しかし今の所そういうやり方でしか、お客さんが増え、同時に才能の芽も育てることができる、という、引き裂かれた状況を、生き抜くことは不可能のように思えます。

新劇場は、才能の芽を摘まないために、設立されます。断言します。その芽を持っているのは自分かもしれない、と考えてみてください。そう思うだけで良いのです。あとは設立を夢見てワクワクしながら日々の創作に励めば良いのです。誰も搾取していません。むしろ、水と肥料を他人が用意しようと言ってくれているんです。それがこのプロジェクトの真意の一つだと、私は思っています。

さて、最後に、何を持って「面白い」とするか、という本題から逸れた件ですが、私にもわかりません。

ただ、最近、面白い記事を見つけました。”京都の名店が語る良いコーヒー”という、SOU・SOUのウェブに乗っていた記事です。そう、あのアトリエ劇研の近くにある珈琲屋さん、ヴェルディの紹介記事です。

「美味しい、美味しくないは個人の嗜好によるものなので、著しく劣化した珈琲でも、それを美味しいと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、食べ物・飲み物には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです。〈続木義也〉」

この後の、豆の選別の記事が、本当に、面白かったです。これを「演劇」に置き換えたら、どうなるでしょう。

「面白い、面白くないは個人の嗜好によるものなので、例えば著しく品のない芝居でも、それを面白いと思う人の個人的嗜好は否定できません。しかし、演劇には、個人の嗜好以前に、『良いもの』と『良くないもの』があるのです」

うーん、なんか、差別的かなあ。あんまりですかね?私がこれを読んだら、「何よ、誰が良い悪いって決めんのよ」って思うかも。でも、ぜひそのあとの、良い品質の生豆、ハンドピック、良い焙炒、新鮮さの記事を読んでください。こちら

この続木氏の、緻密な作業、思想のある一貫した態度、こだわり、しつこさ。

これをやって初めて、「摘まない」芽としてみてもらえる。面白いか、面白くないか、という土俵に上がることができる。この過程を経ていない豆は、俳優は、劇作家は演出家は、あらゆる演劇の分野における人々は、その「芽」であるとは気がついてもらえないのでしょう。

あとね、その「芽」は発芽しないかもしれません。発芽しないかもしれないものを、「摘まない」っていう勇気。その勇気のことを、想像してほしい。

***

正直言って、演劇に何の関わりもない方が「何やってんだ、自分たちでお金出し合って劇場とか、バカみたい」と言ったって、私は、何も言いません。その人は確かに、恩恵を受けないかもしれないし、その人がそう思ったってある意味、仕方がないかもな、とも思います。

でも、自分が、「芽」である可能性がある人。

その「あなた」を摘まないための環境づくりに、過去には同じように一つの「芽」だったあごうさんが、立ち上がったのです。同じ「芽」同士、協力しませんか。それは別に、お金でなくてもいいんですよ。

ということが、私は、言いたい。言いたいだけなのに、こんなに書いてしまいました。

長かったわ。ほんまに、この文章にクラウドファンディングしてほしいわ。ゼーゼーゼー

したため「ディクテ」を観て

開始すぐに長い暗転。赤ちゃんがいるので、常々寝不足気味のせいか、急激な眠気に誘われる。そこから5分ほど、目を閉じたり開けたり。

俳優たちが大きな声を出したので、目覚める。

全てを見終わって、あらすじ、とか、言いたいこと、などについては(言いたいことがあるかどうかも含め)私は全くわからなかった。ただ、私はそういう「わからなさ」にはあまり苦手意識がないようだ。それよりも、演者の声、発語、身体などにとても興味が有る。要するに、メタなメッセージの取り扱い方に興味惹かれる。私がこの芝居に好感を持った大きな理由は、演出の和田さんがおそらく、この演者の身体と発語について「興味を持って演出をした」という点に尽きるのではないだろうか。(だからメタな視点で演出しない演出か、そこに興味のない作品については、全く興味が持てない)

前半の発語は、時折「地点」というカンパニーを彷彿とさせる耳に面白い発語。それらは誰かに向かって発せられるものというよりは、音として楽しむ、という感じ。この芝居は、演者と演者の間にしっかりとした受け答えを目的としたセリフが交わされることはついぞなかったように思うのだが、前半はこの発語に工夫がされていたせいか、「会話」が成り立ってなくても、楽しめる。(「会話」というのは言葉を媒介しないものも含めて、すべての「やりとり」のこと)。口を開けたまま、しゃべったり、避けたオブラートの隙間から人が見えたり、くわえた石を別の人が咥え直したり、そういう視覚的、聴覚的な面白さはたくさんあった。

ただ前半がそうだった分、後半にいくにつれて、発語のルールが各演者に任されているような状況になっていくと、このお芝居がそもそも、お芝居というよりは朗読になっていることに気づかされ、「ストーリー」があることに気づかされ、その筋を追おうとしてしまうことに気がついた。要するに、演者たちが「無意識に」あるいは「意識的に」発語の矛先を求めてしまっていたせいかと思う。それでもそれらは演出の指示がないので、仕方なく空中分解し、一向に「会話」が交わされない状況は変わらない。

また、特に後半にいくに従って、セリフのつっかえ、言い間違い、などが増えていくのも、おそらく演者たちがこのセリフを身体に落としきれていないせい、あるいは、「虚構」から逃れようというコンセプトの演出の盲点、「セリフを間違ってはいけないという虚構」に知らず知らず絡みとられているせいと感じた。

身体と発語に興味を持って演出すると、どうしても、演者の「人間」としての生理というものを考えざるをえなくなる。

例えば石ころのゴロゴロと転がった舞台で、素足で動き回るシーン。演者はここで、自分の大きく振りかぶった腕に体全体を引っ張られるという動きを繰り返しながら発語するのだが、彼女は無意識に、下に落ちている石を避けようとした足さばきをしている。しかし「石にづまづく」という虚構を演出されているため、避けながら、ある一つの石にはつまづく、という離れ業を成し遂げなくてはならない、しかし同時に発語もしているわけで、その混乱した指令に、本来コントロール下にあるはずの発語がぶれる。

あるいは、オブラートのような白い薄い膜を口で溶かしながら発語するオープニング。この後四人の演者はとあるタイミングで「ずっと息を止めていた」かのような、あるいは「全速力で100メートル走った」かのような息切れを起こすのだが、なぜ、「オブラートを口で溶かしていた」だけの身体が、そういう「息切れ」を起こすのか、そこの生理の無視、が気になった。

他の点で面白く、身体と発語について向き合おうとしているだけに、時折そういった「演者の生理を無視する」演出がされていたことには、少し、ハッとさせられた。ラスト、とうとう演者は「日常会話」てきな発語をするのだが、あの発語を客が受け入れるためには「こっちはこういうルールでいきますんで」という、オープニングでの決意表明のようなものを必要とするのではないか。この作品では、オープニングで逆の約束をしている。私たちは、日常会話を行いません。演者と演者はコミュニケーションをとるふりをしません。発語そのものの音を楽しんでください。という約束をしたように感じた私は、中盤からだんだんと空中分解する発語に戸惑い、ラストで少しだけ、恥ずかしくなった。

私が身近で観れてしまうチケット料金数千円のエンタメと呼ばれるものが苦手なのは、そこの「こういうルールでいきますんで」という自覚がない芝居が多いからだとこの時気がつく。それはまあ、エンタメに限らないことなんだけど。

ただ、改めて、私がこの芝居を見た後に、とても清々しい気持ちになった理由は、「身体と発語」というものに着目することが、私たちが小さな劇場、すなわち小劇場でできる有力な挑戦なのだ、ということを、和田さんが思っているように感じたせいだと思う。テレビの前で芸人のギャグに笑い転げているような、あるいは有名な俳優の出ている映画を見て感動して涙を流すような、そういう体験は、小劇場でなくてもできるわけで、小さな密室、真っ黒の、あるいは真っ黒を目指した怪しい空間で、何ができるかといえば、そもそもこの空間で芝居なんてものをしようと思った自分、が、それまでの人生で「メタメッセージ」に敏感に反応し、振り回され、苦しんできたせいではないのか。そこに着目しないでどうする。ということ。

演者の中では、飯坂美鶴妃さんが良かった。何はともあれ、セリフを完全にものにしていたということ。彼女は天性の俳優だと思う。彼女は「器」なのだ。だから和田さんの演出を、分からない部分も含めて、いっさいがっさい受け止めて、演技に還元していた。もしかしたら彼女は時に空っぽとしての苦悩を有するかもしれないけれど、やはり俳優としての才能のある人だと強く思った。もし演出に対して疑問を持ち、それが体に落ちにくいなとなった時は、それをとことん演出に突きつけて共に解決していかないといけない、そうしないと俳優としての力量を100パーセント出せない。そういう俳優の方がどうも、割合的に多いと思う。でも、それってとても難しいこと、日数的にも、関係的にも、なので、演者は疑問を持ったまま舞台に立ち、無意識にセリフを拒否するために、「間違う」のかなあ、と、勝手なことを思ったりした。

いずれにせよ、最終的にやはり、私は、したためを応援したいと思った。
それは、すなわち、私が創作者として刺激されたから、という理由が一番大きい。
こういう作品が、個人的には当然だが一番「観てよかった」と思う。
ただ、応援と言っても、お客さんを百人連れて行くような、あるいは10万円を寄付するような、具体的な応援ができない以上、こうやって感じたことを言葉にすることが、一つの応援になるのではないかと思ったのでした。

次回も観に行きたいと思う。

おしまい。

アトリエ劇研想像サポートカンパニー公演 したため#5
「ディクテ」
原作:テレサ・ハッキョン・チャ
翻訳:池内靖子
演出・構成:和田ながら
出演 飯坂美鶴妃 岸本昌也 七井悠(劇団飛び道具) 山口恵子(BRDG)

アトリエ劇研に於いて、2017年6月25日


写真は私の忘れた自転車の鍵を持って来させられた夫と息子。