サファリ・P」カテゴリーアーカイブ

二十の顔を持つ男

高杉征司 

 いよいよ来週から『怪人二十面相』東京公演が始まる。稽古は佳境に入っていて、右手首・腰・右股関節がウララッ! ウラ! ウラッ! と悲鳴を上げている。まだまだ可能性を諦めず、この期に及んで「あーだこーだ」言いながら創っては壊す毎日。サファリ・Pが新作を創るということはこういうことなのだ、と久々の感覚に浸っている。東京小屋入りしてからも、京都公演が始まってからもどんどん変わっていくだろう。
 1年半前から稽古している。2019年7月28日(日)までの全94回の稽古。1回の稽古が7時間なので……やめよう、計算するのは。どれだけ時間をかけたって最後に帳尻を合わせることになるのは物事の道理で、我々は答えのないことに立ち向かっているのだ!と一人叫んでみる。心の声が枯れそうになる。心の声にはステロイドも響声破笛丸も効き目がない。ただ言えることは、我々が費やした時間は無駄ではないということだ。それは勿論「時間をかければいい」という意味ではない。「時間をかければいいものができる」ことも意味しない。ただ時間の掛け方を間違えなければ、良質な土壌を作っておけば、最後にはたわわな作物が実を結ぶ、ということだ。皆さんには、それを確かめに劇場に足を運んでいただきたいのだ。

2019-07-25 23.13.18

 子供の頃に夢中で読んだ『怪人二十面相』。変装の名人で、年齢・性別の垣根を越えてどんな人にでもなりすます。挑戦的な予告状を送りつけ、指定した日時に狙ったお宝を持ち去ってしまう。厳重な警備をかいくぐって。その存在はあまりに大胆不敵。そしてそのトリックたるや奇想天外というよりも実現不可能。文字上でしか成立しないアベコベで稚拙なものだ。
 こんなダークヒーローたる怪人二十面相なのだけれど、おじさんになった今改めて読み直してみると、その哲学的存在に驚かされる。「その本当の顔を誰も知らない」この二十面相を形容する言葉は、まさしく人間の存在を言葉の限りに書き尽くそうとしてきた哲学の問いそのものではないか!? いや、そうでもないか? まあいい。「存在」いや「私」と言い換えてもいいかもしれないこの得体の知れないものは一体何なのか? この肉の塊が私の全てなのか? 「本当の私」なる真実在はあるのか?
 江戸川乱歩がそんなことを意図したのか否かは定かではないが(恐らくダークヒーローとして子供をワクワクさせたかっただけだと思うのだが)、そういう視点で読み進めるとまた違った面白さが発見できる。さらにはそれを舞台化するとはどういうことなのか? あらすじを伝えてみたってそれは大して面白くもなく、それなら小説を読んでいただいた方がずっと有意義だ。青空文庫で無料で読めるのだから。サファリ・Pの創作はそういうあらすじを説明する類のものではない。怪人二十面相が現れる。しかしそれはすぐに別の誰かに変容し、誰が二十面相なのか分からなくなる。追いかけているつもりが追われている。少し不安になる。私は一体誰なんだ? そうか、私も二十面相なのか。

2019-07-24 01.04.26

 乱歩の大人向け中編小説『陰獣』を当てどころにした山口茜。その目の付け所はとても面白い。上記のような存在に対する問いがトリックに組み込まれた小説だ。この二作品を結びつけたことで哲学とも文学とも娯楽とも言える、まさに大人も子供も楽しめる作品への一歩を踏み出したと感じている。別々に進行するそれぞれのストーリーラインが互いに影響を与え、混じり合い、最後には一つの世界になる。それは、「こんな私」がいて、それとは違う「あんな私」がいて、「本当の私」を探してみるのだけれど、行き着いたところはあれもこれも含めて「全部が本当の私」であるような感覚。そう、作品そのものが「私」の「存在」を体系化したようなものになっているのだ。

2019-07-19 02.30.59

 結局のところどんな作品なのかは観てもらわないと分からない。私の言っている事は私の主観で語られており、演出山口の考えそのものではないし、みなさんが観劇してどう感じるかもまた別の話。作品はそれぞれの中にある。いや、それぞれの中にしかない。この作品に対する解釈は無限にあり、その一つ一つが全て本当であり、その総体こそが我々の創作した『怪人二十面相』になるのだ。だから、みなさんに、よりたくさんの方に観てもらう意義と必要がある。
 期待してもらって大丈夫です。みなさん、お誘い合わせの上ご来場くださいませ。今回はTシャツやトートバッグ、パンフレットも販売しています。会場でみなさんにお会いできることを楽しみにしています!

2019-07-25 11.59.18

サファリ・P『怪人二十面相』創作・思考プロセス#3

朴建雄

○代替可能性について

まだまだ断片的だが上演台本ができてきた。左門老人が二十面相に宝物を盗まれてしまうシーンだ。そこからさらにいらない部分を削ろうということになった。繰り返しがあるが、これは登場人物の写実的なやり取りでなく時空が歪んでいる感じを出したいからだという。配役は、ひとまず達矢さんが二十面相、芦谷さんが左門老人、黒子が高杉さんと日置さん。まず声に出して読んでみる。明智かと思いきやそうでない!という流れのため、明智のセリフと二十面相の手紙は達矢さんが全部読んだほうがいいということになった。動いてみる。黒子が舞台上にどういう存在としていればいいのかが難しい。黒子は明智小五郎の経歴についての説明台詞を語る。その中で動く達矢さんに合わせて黒子が机や椅子を動かすと、エッシャーの絵のようで面白いが、もっと突き抜けた面白さ、もしくはなにかの意味、遊びあるいは視覚的効果がほしい。動きに付与してみるとすれば、ゼンマイ仕掛け、時計仕掛けのイメージの円運動のイメージではないかという意見が出た。その円運動が俳優の動きを制約すると、それが遊びになる。

 

続けて、左門老人と明智に扮した二十面相が話すシーン。二人が向かい合って会話しているところで、舞台上のものすべてをくるくる入れ替えてみる。2つの椅子が4つに見えるように、机、椅子、演者を回す。台詞の感情と動きが連動すると面白いが、情緒的に演技をしていいのかという問題はある。今回(も)感情的な演技は避けたいと考えているからだ。左門老人が最初は椅子にしっかり座っていたのが、黒子を背にした空気椅子になっていき、最後はそれもできなくなってくずおれるという流れができた。不穏感も出るので、この方向でよいのではないかということになった。台詞をあえて感情をこめずに空虚にするだけでなく、会話劇的なやり取りとマイム的な動きを組み合わせてみる方向を目指そうということになった。ただ、「相手が見ている前で盗む」という表現をどうするのか、音をどう扱うのかに関しては、また掘り下げなければならない。

 

役柄があまり固定されておらず、パフォーマーが流動的に様々な役を演じ、台詞を声にする際に感情をこめずあえて空虚に響かせるという方法は、『悪童日記』から続いているものだ。「代替可能性」というテーマがここにある。代替可能性というのは不思議なもので、「誰でもいい」にも関わらず、それでもやっぱり特定の「誰か」がそこに現れてくる。代替可能性はネガティブにとらえられがちだが、実はそんなに悪いものでもない。というのも、代替可能性の中にこそ、代替不可能性の種があるからだ。代替可能性という言葉は、一文にしてみると、「誰でもよかったけど、でもその人になった」になるだろう。この文章の意味は、力点を句読点の前に置くのか、後に置くのかで変わってくる。「誰でもいい」ことが大事なのか、「でもその人になった」ことが重要なのか。代替可能性という言葉のもやもやとした輪郭の中には、その可能性を引き受けてやってきた特定の誰かのはっきりした姿が、小さいものであれ、必ずある。そして変わりうるにも関わらず変わらずに誰かがその可能性を担い続けていくと、もやの中で「誰か」の輪郭は大きく濃く確固としたものになっていく。大事なのは、変わりうるが変わらないという状態を持続することだ。そこから、「その人でないといけない」という代替不可能性が生まれる。誰でもいい役をある特定のパフォーマーが演じたり、劇団として固定のメンバーと創作を続けていったりするのはそういうことに近いかもしれない。

 

 

○「陰獣」からのインスピレーション

次は、「陰獣」から着想を得た「女の部屋」のシーンに取り組んだ。隠れたい一方で目立ちたい欲望、目立つとそれがいやになってまた隠れるという女の乖離した感情を表現したいというのが課題。山口さんから、ファンタジー版の二十面相が陰獣で、陰獣のリアル版が二十面相という話が出る。実はこの作品のメインのモチーフは「陰獣」になりつつあり、二十面相と陰獣をつなげる作業を始めているとのこと。二十面相では女性が出てこないが、「陰獣」では女性が重要な役を演じる。「完璧に隠れるためには見世物になることが一番」というモチーフを「陰獣」から引っ張ってきているので、そのモチーフを表現した台詞(山口さんの部分的な創作)をうまく響かせるための見世物感をいかに出すのかが問題になった。例えば、二十面相のパートで明智は自分が見世物になって二十面相にしかけていく。見世物というテーマだけでなく、「女の部屋」のシーンと「怪人二十面相」のシーンが混ざる面白さがほしい。山口さんの希望としては、「女の部屋」での夫がストーカーじゃないかという女の会話(ストーカー→夫)と、「怪人二十面相」での明智の誘拐についての小林少年と奥さんの会話(浮浪人→明智)のイメージを重ねたいということだった。二十面相=達矢さんは両方の世界を行き来し、「女の部屋」では芦谷さんが明智になり、推理するポジションになることになった。台本がまだほとんどないので、また書いてくるということで稽古は終わりになった。

 

 

〇舞台美術と音の聞こえ方

5月のまた別の日の稽古。この日はまず舞台美術の案を具体化した。床を高くした舞台を組んでみた。穴の下に灯体とスピーカーも置いた。穴はいくつか大きさを試してみて、4センチに決定。床下に実際に入ってみると、床から平台までの高さが低いので、下に入って動くのは難しい。動線も問題。身体が絡まって照明コードが切れたりしたらたいへんなことになってしまう。客席にもスピーカーを仕込んでみる。後ろに配置してみて距離を変えたりしてみたが、後ろから聞こえる、というくらいの感じの聞こえ方だった。スピーカーの音の指向性は、離れれば離れるほど全体にふわりと音が広がり、音の出所がはっきりしなくなる。一方で、床下に仕込むと、かなり気持ち悪く響く。音源を移動させてみると聞こえ方がかなり変わって面白いが、音を滑らかに移動させるのが難しい。下から音楽を響かせると、真下だと足の裏に震えが伝わってくるのが新鮮だ。お客さんが出すような音を下から出してみる、それぞれのスピーカーから違う音楽を流して、合奏みたいにしてみるというアイデアも出た。

 

音に関して本来やりたかったのは、出所のコントロールだった。予想していないところから音を鳴らして人の気配を出したり、客席の上から音を出して誰かに覗かれている感覚を醸し出したりすることで、自覚のない臨場感や気持ち悪さを観客にもたらしたいと考えていたが、いろいろ試しているうち、音の出所の認知に関しては視覚情報が大きいということがわかってきた。真下にスピーカーがある「当たり席」でないとわかりづらいかもしれない。山口さんは、台本の部分部分がうまくいっても繋がりがうまくいかないことが多いが、音を使うことでうまく行くところがある気がしていると言っていた。

 

 実際に舞台を組んでみると、いろいろなことがわかる。パフォーマーの出入口はどうなるのか、ということが問題になった。おそらく出入りができないので、舞台上には常に机と椅子と演者が存在することがわかった。舞台から出ずに床の穴を覗いているパフォーマーを見ていると、見ているのに見られている感覚が観客に生じる。完全に出入りなしというのは厳しいので、ひとまず最初の劇場であるこまばアゴラ劇場に合わせて上手(舞台から向かって右)で出入りする想定で稽古をすることにした。

 

 

○シーンを詰めてみる

先日やった明智の紹介シーンを再度やってみる。とにかく明智が活躍してる感が出たらいいと思っていたが、明智のイメージが具体的にないので作りづらい。颯爽とした感じかと思ったがそうでもない。ここで、山口さんから、「人がオーソドックスに想像することをちょっとだけ越えると面白い」という言葉が出た。いろいろと試してみる。明智の武勇伝を他の4人のパフォーマーが演じる。あまりよくない。明智役の達矢さん中心で、他の4人が動いて回る。よくわからない。行き詰ったのでよくあるシアターゲームを試してみる。達矢さんが走ると、みんなスローモーション。達矢さんが前転をするとみんな止まる。歩くとみんな早めに動く。このルールでやってみる。なにかいけそうな感触があった。スローモーションの時、シャッシャという感じの早く動いている擬音のような音をみんなでたててみる。かなり子どもっぽい表現だが、すごそうな感じは出てきた。ここまでやってきたことをつなげて、「明智先生、宝物が〜」という左門老人(芦谷さん)の台詞で達矢さんがすっと起き上がる、ゆっくり動き出す、スローで前転する、達矢さんのゆっくりとした動き出しに合わせて、みんなが早く動いている擬音を出すという流れになった。明智のすごそうな感じとの対比として、芦屋さんが動くと悲しい音がするようにしてみようということになり、こちらは高杉さんの異様にうまいカラスの鳴き声が採用された。本番まで本当にこれでいくのかはわからないが……。

 

「女の部屋」にも取り組んだ。刑事2人に聴取されているように見えて、本当は刑事じゃないのかもしれないことがじわじわとわかり気持ち悪くなっていくという場面だ。警察に言ったら夫とのSMがバレてしまうというスリル、見られたくないのに見られたい私、という感じがほしい。ひとことで言うと火曜サスペンスということらしいが、それっぽくやると良くも悪くもいかにも安っぽくなってしまう。また、女(佐々木さん)にとって明智(芦谷さん)の声は脳内に響く設定だが、観客にそれを伝えるにはどうすればいいのかという問題もあった。そこまでとは身体や声の使い方を変えるのか、それとも照明等を駆使して空間の質感を変えるのか、やり方はいくつかあるが、稽古場ではまだはっきりとは決めなかった。やはり全体の軸がはっきりしないと決められないことが多い。もちろん決めずにいろいろと試すことこそ創作の面白さであることは間違いないが、決まらないことの不安定さを引き受けているパフォーマーや演出家はやはり大変そうだ。

 

 ここまでつらつらと書いたが、6月に稽古に行けなかった間にだいぶ作品は変わったようで、先日写真を見せてもらった舞台美術も上に書いたものからずいぶんと様変わりしていた。完成にかなり近づいた7月の段階でそれまでとどう変わったのか、次回はネタバレにならない程度に書いてみたい。

サファリ・P『怪人二十面相』創作・思考プロセス#2

朴 建雄

○四月の試行錯誤①:美術、音響、台本、動き

  サファリ・Pの創作現場では、演出の山口さんの直感を具体化するため、出演者やスタッフからも積極的にアイデアを出して試行錯誤する。稽古が始まって間もない四月のある日の稽古では、読むためのテクストも動くためのアイデアもまだほとんどない状態だったので、意見交換が主に行われた。日置さんから、美術・衣装等の進捗について共有する時間を作りたいとの提案があり、まずその話になった。美術は檻にしようかと思っていたが、変更。床を上げて、そこに人間や照明や音響を仕込めるようにする。また、音楽については、増田さんにすでに作ってもらった「見世物小屋」のイメージの曲をオープニングに使う。また、音楽を使い、床下を覗いて話を聞いていた人が、その話で話されていた人になってしまったように感じる効果は作れないかという案も出た。

 また、現段階の舞台美術案では、後ろにテントがある。とすると後ろの壁は使えなくなるが、後ろの壁が使えるか使えないかで、出演者の動き方はかなり変わってしまう。床を上げるとその分天井が低くなるが、それに伴って音や動きがどう変わるのかという問題もある。床については、覗き穴が中心に一つ、もしくは床一面に覗き穴のどちらかだろうという話になった。覗き穴に蓋をつけるかは迷い中。いずれにせよ、床の下にもう一つの世界があるということを、観客に想像させたい。実際に下で喋って、客席の後ろ側から音を出してみるなど。下で喋っていることが上で実際に行われることの面白さも狙っていきたい。また、舞台を全面階段にするとどうかという意見も出た。

  音響について。色々なところから流せるようにして、生音からスピーカーの音を混じらせていくのはどうかという提案。山口さんによると、乱歩の小説は、室内と室外で違う音が鳴っているという描写が多い。つまり、音で時間の経過や緊張感を表現している。衣装の話も出た。みんな自分の人生を歩んでるけど、どこかのポイントで二十面相になる、という感じを出したいので、服のデザインもずれてるけど共有してるポイントがある、というのがいいのではないか。抽象的な縦の縞々の服(浴衣)はいいかもしれない。

上演台本についての話。本質的な要素は小説『怪人二十面相』と同じだが、ストーリーラインは別に追わなくてもいいと考えている。言っていることとやっていることのズレ、言葉と見えるものの差の面白さを扱いたい。下からくぐもった声が聞こえる、というイメージがあるが、これは誰かがぱっと話して世界が壊れるのを避けたいからだ。ここで、エンタメ感はどれくらい入れるのか、という話になる。サファリの二十面相では、エンタメ感=ページをめくる手が止まらない、乱歩を読むときの感覚と考えたい。床下の話を聞いて、どうしてそうなった?と思ってもらい、もっともっと知りたくなる状況を作っていく。お客さんの気がゆるむコミカル感もあっていいし、パフォーマーの動きの凄さはわかりやすくエンタメ感が出るはず。

あらためて上演台本の内容について。『怪人二十面相』には、勘違いを利用して罠が二重に仕掛けられているという感じ、つまりわざと推理させる、でもそれが間違っているというミスリードの流れがある。ここの面白さを扱いたいが大きな問題が一つ。それは子ども向けに書かれている言葉が退屈だということ。そのため、色っぽく魅力的な言葉を短編小説から抜き出し、二十面相のストーリーラインを、他の小説の言葉を使って作ろうと考えている。乱歩の語りのうまさはどこから生まれているのか?例えば『D坂の殺人事件』では、トリックというより、人の隠したいところを出してくる。作者乱歩の背景や、二十面相の素性よりはトリックに着目したほうがいいかもしれない。例えば、音でトリックを作るとしたらどうなるか。台詞は下から聞こえているが、他の場所から本人が出てくるのはどうか。佐々木さんがそれをやるのはいい。声、存在感で際立つので。観客一人一ヘッドホンはどうか。つけ外しのアトラクション感は不要。実験的にしたいわけではない。作品全体のまとめ方としては、そんなに大きくなくていいので最終的にもう一個どんでん返したい。地下室と屋根裏部屋の構造で、上演時間1時間で作りたい。

ここまで頭で考え続けて煮詰まったので、身体を動かしてみることにする。現段階で少しだけあるテクストを、1音ごとに区切って、割り台詞で読んだ。そうするとどうしても意味、台詞に聞こえてしまう。ではそうならないようにと音階をバラしてみると、地点(という劇団)っぽくなってしまう。台詞を切って言うだけでは面白くならない。いまの狙いは、みんなで一人の人がしゃべっているようにすることで、言葉から意味を剥がすことではない。高杉さんから、バラバラな音が、「この物語は二十の顔をもつ不思議な盗賊の話」という最後のフレーズにつながっていくのはどうかという提案があり、試してみる。あまりうまくいかない。台詞を意味のかたまりごとにわけて、間に音を挟んでみる。これもあまりうまくいかない。変に感情を込めることなくおもしろく台詞を言うというのは本当に難しい。

  ダンスを作ってみる。床に穴があると想定して、穴に向かってどう踊るか、一人ふたつネタをつくることにした。できたらまずはそれぞれの動きを共有。穴から光が漏れている感じを出すため、稽古場を暗くしてスマホの明かりをつけてみる。ここでは踊るというより、下から出ている光と戯れている感じがほしいとのこと。地面に平行に、腕の力だけでスライドして回転する動きができた。かなりおもしろいが、考案者の達矢さんによると、地面でスライドするのは衣装と床にかなり影響されるらしい。摩擦が大きいとスライドする動きが大変なようだ。この日の稽古はこれで終わりになった。

 

○四月の試行錯誤②:舞台への出入りと佇まい

  四月のまた別の日。ひとまず以前できたダンスをベースに、広げてみる。面白い脱線があるかもしれない。早い動きがもっとあっていいとの意見があり、緩急をもっとつけてみる。人の穴に移動してもいい、人のいない穴があってもいいと制約を緩くして動きの可能性を探っていく。ギリギリまで同じ動きのように見えて違った!という瞬間はおもしろいという発見があった。動き疲れた出演者たちは少し脱線。今回出演者は靴を履くのだろうか?裸足だと、コンテンポラリーダンスっぽくない?という謎のツッコミが多い。一方、演出家はひたすらテクストを書いている。乱歩の短編集から、気になる言葉をとにかく抜き出してエクセル(二十面相の要素が縦軸、短編の題名が横軸)に入れ、共通する要素を探っている。演出家も出演者も、とにかくなにか土台を作るために必死だ。

 短編から少しもってきたテクストを使ってみる。下でしゃべったことが上で実現されることの面白さをはっきり出したいが、抜粋してきた「遠藤が死んだ」という話と二十面相の説明の描写を接続するのは難しい。また、床下に横たわって声を出すと、横たわってる人の声だとすぐわかってしまう。どうにかならないかと筒や布を口に当てて台詞を言ってみると、確かに響き方が変わる。下に横たわってマスクするのがいいかもしれない。さて、床下にどう行くのか。もぐったなとは思われたくないが、どんどん床下を活用したい。ここで問題になったのが、誰かがいなくなったことに対する反応に、演技の余地ができてしまうこと。いかにもな死体の第一発見者は演じてほしくない。日置さんはどこにいても身体がニュートラルで演技っぽくないが、そういう佇まいがいいとのこと。

 舞台上への出入りの方法、舞台上でどういう佇まいでいるのかを決めたい。そこが決まれば楽になる。出演者になにか役をやってもらうのは違う。というのも、全員が二十面相なので、個々人に役をふれないから。演じてるのでなくたまたまやってるだけ、という感じがほしくて、舞台を通じてこの人はこの役というようにはしたくない。芦谷さんから意見が出る。こういうトリックなんで!という説明を小説がしてくる感じみたいに、こういう役なんで!という説明を演劇がする感じにはできないだろうか。もちろん、ヒゲをつけたりして「こうですよ!」と見せる方法はありきたりなのでやりたくないが……。舞台への出入りについて、暗転以外でリセットする方法はなにがあるだろうか?次のシーンが始まる立ち位置=前のシーンの終わりの立ち位置という流れは『悪童日記』でよくやった。また、両脇に椅子を置いて、舞台袖を作らない演出は昔すごく流行った。しかしそういう方法でなく、立ち方や身体の緊張・弛緩で、キャラの変化を示せないかだろうか。会話劇を作るんじゃなくて、絵として見せるという形で作りたい。

  上記の通り、四月は完全に試行錯誤の段階だった。結果的には採用されないアイデアも数多いが、ここで妥協せず納得いくものを追求することで、作品の完成度は増していく。テクストと美術がより具体化した五月の稽古については、また次回に書くこととする。

『怪人二十面相』創作・思考プロセス#1

朴 建雄

○『怪人二十面相』、そして江戸川乱歩について

 江戸川乱歩の『怪人二十面相』と聞いて何を思い浮かべるだろうか。サファリ・Pで『怪人二十面相』をやると聞いたときの私は、乱歩の短編集は読んだことがあり、この作品もタイトルは知っているけれども、具体的にどういう話なのかはよくわからないという状態だった。二十面相という怪盗が名探偵の明智と勝負するというぼんやりとしたイメージだけがある。筆者もタイトルも知っているけれども実際どういう話か知らないというのは、古典にはよくあることかもしれない。例えば、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』やドストエフスキーの『罪と罰』等々。乱歩の受容は世代によってかなり違うようで、サファリの山口さんや高杉さんは昔読んでワクワクした記憶がはっきり残っていると言っていた。位置付けとしては、二十代後半の私世代が小学校時代に読んだ『かいけつゾロリ』や『ズッコケ三人組』シリーズに近いのだろうか。ただ、乱歩は児童文学者ではないという点が違う。彼は元々大人向けの小説の書き手だった。

 

『怪人二十面相』が書かれた経緯を確認してみよう。光文社『江戸川乱歩全集 第28巻 探偵小説四十年(上)』によると、少年倶楽部の編集者から熱烈な依頼があり、依頼自体は前々からもあったことだしなんとなく、という流れだったようだ。題材がなくなって行き詰まるという点では、以前サファリが『財産没収』で取り組んだ作家、テネシー・ウィリアムズに似ているともいえる。テネシーは作家としての成功を収めた後も書き続けたが、同じモチーフの戯曲ばかり書いてマンネリに陥っていると批判され、アルコールと薬物に溺れた悲惨な後半生を送った。探偵小説作家にとって、トリックがマンネリになってしまうのが致命的なのは明らかだ。乱歩の題材が尽きるサイクルはテネシーよりもっと早かった。彼は数年単位ですぐに行き詰っては放浪し、執筆を再開することを繰り返した。推理小説のトリックのネタがなくなると幻想・怪奇小説へ、幻想・怪奇小説の題材が尽きると少年向け小説へと乱歩の執筆ジャンルは変わっていった。乱歩自身、以下のように述懐している。

 

「私はなんでも初めよし後悪し、竜頭蛇尾の性格で、昔やった職業でも、入社そうそうは大いに好評を博するのだが、慣れるにしたがって、駄目になってしまう。飽き性というのであろう。小説でも同じことで、大した苦労もせず、処女作が好評を博して、初期は甚だ好調であったが、すぐに行きつまり、その転換に、やけくそで大部数発行の娯楽雑誌に書いてみると、これがまた大当り、しかしそれも結局は竜頭蛇尾で、このころは大人ものがそれほどでなくなっていたので、又々転換という心境であったかもしれない。ところが、この少年ものの第一作がまた、例によって非常な好評を博したのである」

 

〇演出家の思考

ちなみに、演目が『怪人二十面相』になった理由は、演出の山口さんの勘だった。他にも色々と案は出ていたので、これに決まった時は正直かなり意外だった。今までの作品とはかなりテクストの性質が違うように思えたからだ。これまでのテクストは、『財産没収』にしろ『悪童日記』にしろ書き手の生い立ちを反映したもので、恐ろしいまでの情念が込められていた。それに比べて『怪人二十面相』はいかにも軽いように思える。今回始めて読んでみて、わかりやすい悪党と正義の味方という区分、現実には不可能としか思えない子供騙しなトリックのオンパレードにいちいち心の中でつっこんでしまった。

 

4月始めに、演出の山口さんから考えていることを聞いた。『怪人二十面相』から出てくる言葉は、「わくわくする」「見てみたい」ではなく、「虚をつかれる」「はっとする」だという。この作品では時代と社会の空気が犯人を作り、オウム真理教の事件がそうであったように、周りの忖度の結果、首謀者の望み以上のことになってしまうという感覚がある。その意味で『怪人二十面相』にあるモチーフは、金持ちをやっつけたいというものだ。この小説は表面的には単純な勧善懲悪の話に見えるが、江戸川乱歩の他の小説は勧善懲悪ではない。この小説では「子ども向け」という立ち位置的にそう見せかけているに過ぎない。

 

「怪人二十面相」は大衆の結託によってできる実体がない存在だ。本部のない組織はないので、無理はあるが、「怪人二十面相」は大衆の欲望の具現化として、その都度その都度金持ちを連携して懲らしめる。1930年代当時の日本は金融恐慌のただなかで、金持ちと庶民の格差が大きかった。それを鮮やかに飛び越える痛快さがこの作品にはある。ただ、ふつうに読めば読者は二十面相には肩入れせず、明智に感情移入する。大衆が迎合するものを持っている一方で、二十面相はジタバタする。明智を立てるために、彼のやることは思い通りにはいかない。技を掛け合うが、ちょっと明智が上という感じになってしまう。もしかすると、明智のほうが二十面相より面白いかもしれない。明智は二十面相よりずっとクールな感じで、みんなの憧れのヒーローだ。変装したり潜入したり、技は二十面相と同じだが、ジタバタはしない。また、小林少年は、明智と奥さんの家に住んでいるが、実際のところ子どもではない。彼は小型の明智で、読み手の子供が感情移入するために存在している。しかし、閉じ込められて「ひとねむり」するように、常人ではない。さて、この小説、どうすれば面白い舞台にできるのだろうか。

 

〇死と欲望という通底音

今までのテクストと違う、と書いたが、『怪人二十面相』単体にこだわらず、江戸川乱歩がどういう書き手であったのかに注目すると、サファリのこれまでの作品との連関が透けて見えてくる。サファリの作品に共通するモチーフを考えてみよう。まずもってそれは死と欲望だ。より具体的に言えば、迫りくる死への恐怖とそれに拮抗する力としての性欲である。『財産没収』と『悪童日記』どちらのテクストにも、登場人物たちを取り巻く死と、愛にも暴力にもなりうる混沌としたエネルギーが潜んでいる。私は、この死と欲望がサファリの上演のモチーフになっていると考えている。『財産没収』のウィリーは、姉の死に憑りつかれ、妄想の中で姉と一体化して亡霊のようにさまよう。『悪童日記』の双子は自分たちを押しつぶそうとする戦争の死と暴力に抗って、愛されたいという心を引きちぎって無関心を自分たちに強要し、身体を傷つけて痛みに無感覚になろうとする。

 

大多数の探偵小説は殺人事件を扱う。その点で死と欲望というテーマが常にそこにある文学ジャンルだと言える。しかし『怪人二十面相』は子ども向けなので、「二十面相は血を見るのが嫌い」という設定になっており、殺人は起こらない。ところで、探偵小説とは、どういう小説なのだろうか。それは、秘密を作り、暴く物語のことだ。小此木啓吾『秘密の心理』によれば、サディズムとは秘密を暴こうとする欲望であり、マゾヒズムとは、秘密を暴かれたいという欲望である。山口さんによれば、乱歩のテーマはSMで、人に見られてはいけないものを覗き見する興奮だという。彼女は乱歩の小説に見られたいのに見られたくないという欲望があるとも語っていたが、これは言い換えれば、この完璧なトリックを見せたい、だが見せると悪事が露見し、捕まってしまうという犯罪者の葛藤でもある。探偵小説はその歪な欲望を合法的に見せられるシステムだ。心の中に燻っている暴力や性欲といった混沌としたエネルギーを「文学」というオブラートに包んで吐き出すための発明とも言える。

 

〇自己療養する子どもたち

主要な登場人物が子どもであるという点も、これまでのサファリの作品に共通している。なぜ子どもなのか。それは、作者が自己形成を演じなおすために書かれたテクストだからだ。人間は子どものときに接した他者からできている。テネシー・ウィリアムズの『財産没収』の姉妹の関係、そしてウィリーとトムの関係は、明らかにテネシーの実際の姉ローズと彼自身との関係を反映している。アゴタ・クリストフは自伝『文盲』で、兄と過ごした戦時中の子ども時代の思い出の断片から『悪童日記』を書いたと記している。

 

人間を形作る他者は人間に限らない。乱歩の場合、それは小学生の時に読んだ黒岩涙香の翻案ものの怪奇探偵小説『幽霊塔』や、菊池幽芳の探偵小説『秘中の秘』だった。『財産没収』も『悪童日記』も『怪人二十面相』も、自分は何者なのかを書き手が問い、そういう自分がどう形成されたのかをたどるために子供時代に戻り、それを演じなおすために書かれているのではないだろうか。『江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実』所収の「わが青春記」と題したエッセイに乱歩はこう書いている。

 

「すべての物の考え方がだれとも一致しなかった。しかし、孤独に徹する勇気もなく、犯罪者にもなれず、自殺するほどの強い情熱もなく、結局、偽善的(仮面的)に世間と交わって行くほかはなかった。(中略)しかし、今もって私のほんとうの心持でないもので生活している事に変りはない。小説にさえも私はほんとうのことを(意識的には)ほとんど書いていない。」

 

「際立った青春期を持たなかったと同時に、私は際立って大人にもならなかった。間もなく還暦というこの年になっても、精神的には未成熟な子供のような所がある。振り返って見ると、私はいつも子供であったし、今も子供である。もし大人らしい所があるとすれば、すべて社会生活を生きて行くための「仮面」と「つけやきば」にすぎない。」

 

これらの文章を読むと、小説を書くという行為は、乱歩にとっては自分の「物の考え方」を反映した「仮面」を作ることだったように思えてくる。

 

また、「忘れられない文章」という以下のようなエッセイもある。「青年時代から現在までも、最も深く感銘しているのはエドガー・アラン・ポーの次の言葉である。「この世の現実は、私には幻――単なる幻としか感じられない。これに反して、夢の世界の怪しい想念は、私の生命の糧であるばかりか、今や私にとっての全実在そのものである」近ごろの作家ではイギリスのウォーター・デ・ラ・メイアの次の言葉が、これを継承している。「わが望みはいわゆるリアリズムの世界から逸脱するにある。空想的経験こそは現実の経験に比して、さらに一層リアルである」私は色紙や短冊に何か書けといわれると、これらの言葉をもっと短くして「うつし世は夢、よるの夢こそまこと」と書きつけることにしている。」

 

 ほかの誰とも違う存在、現実世界にいられない人間は、それでも生きていくためにそれぞれのわざを使って自分のための世界を作る。そういう人間のことを芸術家と私は呼びたい。「芸」「術」という言葉はふたつとも「わざ」という意味だ。そして「芸」には「植える」、「種をまく」という意味もある。自分が生きるためのわざが、他者の体や心に何かを植える、そこに芸術の喜びがある。

 

山口さんが敬愛する村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』に、「書くことは常に自己療養の試みに過ぎない」という言葉がある。探偵小説や怪奇小説を書くことは、乱歩にとって自分の欲望に向き合うための「自己療養の試み」だったのだろう。サファリで扱われる作家たち、そして山口茜という劇作家は、みな「自己療養」のため、他者に理解されない孤独の中で気が狂ってしまわないように、生きるための切実な方法として書いている。彼・彼女らはそこで生きていくための巣を言葉で編む。そしてその自己療養のありようを最もまざまざと見て取ることができる、乱歩の作家としてのキャリアの結節点である小説『陰獣』が、今サファリの『怪人二十面相』創作において大きな位置を占めはじめた。この小説には、秘密を作り、暴くこと、死と性欲、そして作家乱歩その人の姿がはっきりと書き込まれている。子どもとしての面が強い乱歩が現れている『怪人二十面相』と、大人としての面が強い乱歩が現れている『陰獣』を突き合わせ、どう接合するのかが今の稽古場の課題である。それは、乱歩の小説に通底する「秘密を作りたい、そしてそれを暴き暴かれたい」という欲望にどう向き合うのかということでもある。

 

今回は導入として『怪人二十面相』をめぐる書き手と読み手について概観したが、次回以降は、『陰獣』を紹介しながら稽古場で起きたこととそれに伴う思考プロセスを詳述していく。

サファリ・P 第6回公演『怪人二十面相』チケット発売開始!

 サファリ・P 2年振りの新作『怪人二十面相』のチケットが2019年5月22日、ついに発売となりました!

 その本当の顔は誰も知らない大盗賊「怪人二十面相」。予告状を送りつけ、厳重な警備をかいくぐり颯爽とお目当ての品を盗み出すそのやり口は、大胆不敵にして快刀乱麻! それはそれは痛快なのですが、「誰もその本当の顔を知らない」ということは、彼が彼であることを証明できないのであって、捕まえても捕まえても「あっしみたいな者があの二十面相だとでもお思いで?」と、いつだって別人なのです。無敵なのです。
 無敵の代償は圧倒的な孤独なのではないか? といらぬ心配をしてしまうのですが、そんな凡人の憶測などゆうに飛び越えて、巨人の肩の上から遥か遠くを見晴るかす。
 作曲家の増田真結氏を迎え、「光と音」、「身体と音」で織り成す、全く新しい『怪人二十面相』にご期待ください!

◉こちらは今年4月からの本稽古に先駆けて行われたプレ稽古の様子をまとめた動画です。
 本番までのつなぎにお楽しみください。
2018年5月11〜17日@森下スタジオ

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佐々木ヤス子 サファリ・P入団のお知らせ


撮影:清水俊洋

 サファリ・P 第4回公演『財産没収(再々演)』、第5回公演『悪童日記(再演)』に出演した佐々木ヤス子さんがサファリ・Pに入団することとなりました。6月の『悪童日記』コソボ公演、8月の第6回公演『怪人二十面相』、10月の『悪童日記』瀬戸内国際芸術祭2019参加など今後のサファリ作品への出演も軒並み決まっていたのですが、いざ入団となると我々劇団員も感慨深いものがあります。技術もやる気も負けん気も人一倍の彼女の活躍にご期待くださいませ。


◉佐々木ヤス子コメント

 私にとってサファリ・Pは、夢を語れる勇猛さと、それを実現させるための堅実さ、(そして筋力トレーニングへのストイックさ)を併せ持つ劇団であり、強く心惹かれ、この度入団をお願いしました。
 今後はサファリ・Pの一員として、いつかサファリ・Pが世界の演劇シーンを牽引していけるような劇団になるために頑張って参ります。(そして理想の筋肉を手に入れてみせます。)
 どうぞ宜しくお願い致します。

『悪童日記』コソボ公演【クラウドファンディング】が始まりました!

 サファリP 第5回公演では、2017年に初演し好評を得たアゴタ・クリストフ作『悪童日記』を2019年2月~3月に大阪・八尾、横浜、京都にて再演しました。この一連のツアーは各界から身に余る評価を頂いたのですが、国内での評判にとどまらず、この作品が縁でコソボ共和国プリシュティナで開催されるアートフェスティバル第7回FEMARTフェスティバルから参加招待を受けることとなりました。

 私たちは、今まであまりなじみのなかったコソボという国について調べ、大使館の方のお話なども伺い、先方の担当者とも何度もやり取りを重ねてきました。そしてアゴタ・クリストフ自身が体験し、この作品で描かれている分断のモチーフとなったハンガリー紛争のすぐそばの国、そしてほんの10数年前に国が分断されて独立して生まれた新しい国で、この演目を上演できるというチャンスに運命的なつながりを感じました。
 先方の熱い思いと、日本の様々な方の支援を受けて、サファリ・Pはフェスティバルの参加を決めました。まだ設立されて間もない若い国の勢いが、サファリ・Pのそれと似通っていました。これを逃せば、今後コソボの方と関わることはないでしょう。私たちはこの機会を逃すわけにはいきません。

 しかし演劇を上演するには、たくさんのお金が必要です。フェスティバル側は、非常に魅力的な条件を提示してくださっていますが、コソボとの物価の違い(コソボ共和国の平均月収は3万円程度)もあり、必要な経費をまかなうことは出来ません。すべて自腹でまかなうことになってもいい、という覚悟ではいるものの、コソボ共和国という国との付き合いを、1回きりのことで終わらせたくありません。今回のご縁が無ければ、日本人の劇団がコソボという国で公演を行うということは当分無いかもしれません。今回つながった細い糸を、これから先も持続可能な交流へと広げていきたいと考えています。

 サファリ・Pというカンパニーが、外国でのフェスティバルへの参加や、国内外での外国人アーティストとの共同創作等を行いながら、息長く活動を続けていくためには、必要経費を何らかの形でまかなう必要があると考えました。私たちは現在各種助成金の申請など自己資金の確保に奔走しています。その結果左右されること無く、今回のプロジェクトを成功させたいと考え、この様な形で広く支援を募ることとなりました。もちろん助成金や自己資金の獲得状況によって、目標金額の設定を変更することを予定しています。

 私たちは、このフェスティバルに参加することで、今後観客の皆さんに多くを還元することができると確信しています。ぜひ、ご支援をよろしくお願いします。


◉ご支援いただける方はこちらよりお願いいたします。
(各界からの応援メッセージや我々の想いが掲載してあります。それをお読みいただくだけでも嬉しいです)

 

サファリ・P『怪人二十面相』演出助手・制作助手を募集します

 この度、合同会社stampでは、サファリ・P『怪人二十面相』の稽古場のレポートや制作補助、企画制作会議への出席を通じて、演劇製作に関わっていくことに興味がある方を若干名募集します。演劇公演の制作・広報に関する企画立案と実施を積極的に行っていただける方につきましては、助手ではなく制作者として継続的にstampの活動に参加していただきたいと考えています。
 
 これまであまり演劇とかかわりがなかったけれども、芸術に携わる機会がほしいという学生、社会人の方を歓迎いたします。学業やお仕事の傍らの参加でも結構ですので、少しでも興味を持たれた方はぜひご応募ください。
 
 演劇と社会をつなげること、ひろげることに意欲的な方のご応募を期待しています。
 
 ご応募につきましては、下記の「○応募条件」「○仕事内容・条件」をご確認いただき、「○応募書類要項」の7点を記載したワードファイル等を添付したEメールで下記アドレスまでご連絡ください。また、何かご不明な点がございましたら、下記アドレスまでお気軽にお問い合わせください。
 
 
応募先アドレス
 
 
 
締め切りは3月31日(日)です。ご応募いただいた全ての方と4月上旬に30分程度の面談を行う予定ですが、応募者多数の場合は書類で選考する場合があります。ご了承ください。
 
○応募条件
 
・京都市在住、あるいは京都市内に通える方
 
・20歳以上30歳くらいまで
 
・サファリ・Pやトリコ・Aの舞台作品を観たことがある人
 
・基本的なPCスキルがあること
 
(ワード、エクセル、パワーポイント等で文書作成ができること)
 
・演劇の観客を増やすことに興味があること
 
 
 
○仕事内容・条件

 
*2019年4月から8月まで月数回、制作作業やミーティングに参加。報酬:50,000円
 
*サファリ・P『怪人二十面相』ツアー(7,8月東京、京都)での劇場付き 日給5000円(参加可能日は応相談)
 
*遠距離の交通費は当社で負担します。
 
*近距離の交通費は自己負担となります。

○応募書類要項(書式自由)

 
①氏名
 
②年齢
 
③住所
 
④メールアドレス
 
⑤電話番号
 
⑥観たことがあるトリコ・Aもしくはサファリ・Pの作品と、作品を観て感じたこと、考えたこと
 
(観たことがある作品名を除いて400字以上、上限なし)
 
⑦今後、合同会社stampでの活動を通じて、演劇にどのように関わっていきたいか
 
(400字以上、上限なし)

 
みなさまのご応募を心待ちにしております。
 
 
合同会社stamp

『悪童日記』の躍動日記③

 『悪童日記』ツアー2018が終わりました。
 八尾に始まり、横浜を経て、最後は地元・京都に錦を飾る、足掛け三週間の長い旅でした。大きな事故や怪我もなく、無事に終えることができたことに感謝です。そしてお世話になった劇場の方々、お越しいただいたお客さん、ご協力いただいたたくさんの方々、いつも我々の要望に全力で応えてくれるスタッフの皆さん、そしてご来場は叶わなかったものの気に掛けて応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。この場をお借りして御礼申し上げます。


撮影:松本成弘 @京都府立文化芸術会館

 思えば私(高杉)は12月も1日から24日まで『財産没収』のツアーに出ていたのであって、ひと冬で三都市ツアー(『財産没収』は試演会を入れたら四都市!)を二本回すという荒技に出た。なぜこんな荒技を敢行したかというと、「再演だしイケるか!?」という軽いノリだったような気もするし、「これくらいの強度で進んでいくのだよ!」というある種の覚悟であったような気もするのだけれど、結局のところは何も思い出せない。始まってみれば、当然制作も創作も二本同時並行なので、相当バタバタした。大きな犬と一緒に白浜あたりに身を隠したいと思ったことも一度や二度ではない。
 サファリ・Pは稽古をたくさんすることでこの界隈ではちょっと有名なのだけれど、それは「再演」であっても変わりなく、『財産没収』も『悪童日記』も弾むように稽古した。稽古初日に初演の芝居を立ち上げてみるのだけれど、それは問題点・改善点を洗い出すためであって、初演を踏襲する気などサラサラない。お芝居っていうのはよく干したスルメみたいなもので、噛めば噛むほど味が出る。『財産没収』再演で何に取り組んだかはそっちの記事を読んでいただくとして、ここでは『悪童日記』に話を絞る。


撮影:松本成弘 @京都府立文化芸術会館

 まず問題は「プロセニアム」であること。
 これは本当に難題で、最後まで我々を苦しめ続けた。翻って、それはやり甲斐ということになるのだけれど、今は終わったからそんな悠長なことを言っていられるのであって、当時の私はずっとすい臓の裏辺りがヒリヒリしていた。
 今作に限って言えば、プロセニアムの問題は「サイズが大きい」ことではなく、「客席が舞台を見上げる」ことだった。もちろん大きいことも簡単ではなく、60席が420席になるのだから、そのサイズ感の演技・動きに変えていき、観客の遠さも意識して作り直さなければならない。しかしそれは「アジャスト」というレベルの修正なんだと思う。しかし「観客が舞台を見上げる」構造は如何ともし難い。初演の会場は「アトリエ劇研」「こまばアゴラ劇場」「シアターねこ」。いずれも客席はひな壇を組んで舞台を見下ろすスタイル。我々はそれを意識して舞台美術の平台ワークを考えた。十字架になったり、チクタクバンバンをしたり、道になったり、台の下に人が隠れると見えなかったり。平台の組み合わせや動きが上から見て楽しめる構造を作り上げたのだ。しかし、お客さんが舞台を見上げるとなると、初演で創ったビジュアルイメージがことごとく無力化されてしまう。これは本当に困った。もちろん舞台美術を0から考え直し、全ての段取りをつけ直す時間などない。それは新作一本創る労力が必要で、再演ツアーの時間配分では絶対に対応できない。是が非でも初演をアレンジすることで乗り切らねばならない。脾臓の裏の辺りがカサカサする。
 色々試してみて実践したのが、「台を立てる」「台の下の人を見せる」「台の天板の組み合わせの形を見せることがこの芝居の面白さの本質ではない、と自分達に強く言い聞かせる」、この3点だ。どれも非常に強力な作り直しの根拠になった。中でも三番目は冗談っぽく書いたのだけれど、意外とこれが一番効果があった。身体性や発話で世界を象っていくこと、物質や次元ということも含んだ「存在」への哲学的問いかけ、躍動感、スピード感、静止と静寂などがこの作品の面白さの本質であって、平台の組み合わさった形はその補助にすぎない。なので、芝居のダイナミズムをしっかり生の迫力で提示できれば、天板が見えないことなど恐るるに足らず、と考えたわけだ。とはいえ、蓋を開けてみるまでは不安でいっぱいだったのだけれど、2月10日、八尾プリズムホールのカーテンコール、万雷の拍手でお客さんに迎えられた時、「我々のやってきたことに間違いはなかった」と確信できた。

撮影:中筋捺喜 @八尾プリズム小ホール

 フィジカルが物を言う芝居なので、43歳の身体には幾分応えた。「大きな怪我もなく」と冒頭に書いたけれど、逆に言えば小さな怪我はたくさんあったわけで、佐々木ヤス子さんはギックリ腰と闘っていたし、私はふくらはぎがずっと肉離れを起こしていた。そしてこのワークをこなすには筋力もいるし、スタミナもいる。それらがないなら身につける(取り戻す)しかないのであって、できることしかやらなくなったら、そこで作品も表現者としても終わる。中筋さんの執筆してくれた稽古日誌にも出てきたけど、みんなでトレーニングに打ち込んだ。こんなの20代以来だ。
 プランク2分 → 腕上げジャンプ10分 → ゴキブリ体操3分 → 逆立ち1分 → 背筋キープ2分 → プランク2分。これを1分のインターバルで回し、最後は平台を積み重ねたオブジェを飛んで潜ってのアスレチック5周。トレーニング後は、パンパンに張ったダル重い筋肉、滴る汗、切れる息、そんな悦びを感じながら各自持参したプロテインをガブ飲みする。
 演出が悩み始めたり、休憩時間やちょっとした空き時間ができたら、みんな壁のないところで逆立ちを始める。腕立てをする。ローラーで腹筋を鍛える。高タンパクな食物を紹介し合う。「アーティスティックな作品ですね!」なんて形容されるが、内実は超変態筋肉劇団なのだ。一方で、その変態性にこの作品が支えられていることに疑いの余地はない。とにかくなんであれ「歳のせい」にはしたくない。筋肉は裏切らない。「50歳になってもこの作品やってたいな…」トラックでリノリウムを運びながら、独り言(ご)ちるように呟いた。助手席に座る達矢くんは微笑みながら頷いた。

文:高杉征司


撮影:松本成弘 @京都府立文化芸術会館

『悪童日記』の躍動日記②

 『悪童日記』国内ツアーもいよいよ最後の地、京都に来た(というより戻ってきた)。
 八尾、横浜と回を重ねた上演は、さらに進化していた。ぜひリピートしてほしい。

 小劇場という空間は面白い。観客と俳優の距離が近く、その分観客と作品の距離も近い。迫り来る熱量が、一般的なプロセニアムの劇場とは段違いだと思う。
 この『悪童日記』の上演もプロセニアムで、観客と俳優との物理的な距離は遠い。むしろ、遠くていい。できるだけ上演・作品を俯瞰して見ることで、かえって一見わかりにくい双子の輪郭がはっきりとしてくる。双子もまた、感覚を失い、まるで幽体離脱しているかのように自身らを俯瞰してゆく。よく言うことではあるが、客観視することで初めてわかることがある。私達も、双子に感情移入するのではなく俯瞰し、徹底的に客体になることで、見えてくるものがあるのではないだろうか。もちろん、俳優の身体が迫ってくるのは前の方の席だとは思うが、折角なので俯瞰してみていただきたい。

 さて。
 ここからは私の個人の感想になるのだが、この作品を初めて見た時に感じたことは、「乾いている」という感覚だ。
 『悪童日記』のテキストから引用したセリフの数々は、生々しいものが多い。生/性への欲望がはっきりと描かれる。言語化される。戦時下で、人はこうも欲望が剥き出しになるのかと、戦争はおろか震災もほとんど経験したことの無い私はそれだけで震え上がるほどに恐ろしく、そして異常なものへの気持ち悪さ、または憧れを感じる。元々性的なものが苦手だし、演劇的表現であっても性的なモチーフを見せられるのは苦手だったし、生死に関わることも出来るだけ見たくないと目を逸らしてしまいがちな人生を送ってきた私だが、このサファリ・P『悪童日記』を見た時には、全く目を逸らしたいと思うことはなかった。これはもしかすると、物理的な距離によるものかもしれないが、それ以上に演出の妙なのだろうなと感じる。出演者の方々は叙情的ではなく叙事的に、声と身体を使って文体を体現する。その声と身体で表現される双子は、明らかに生への欲望があるにもかかわらず、物語に重きを置くのではなく文体に重きを置くことで、双子の「乾き」を描き出しているのだと感じた。

 人はついつい物語を追ってしまう。「ドラマチック」だからだろうか。しかし、物語を追うのではなくその表現の徹底、表現の強度を追うことでこそ見えてくるものがあるのではないだろうかと感じる。

制作助手 中筋捺喜