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内臓語にもぐる旅の振り返り

  • この会に参加した動機

今年の夏ぐらいだろうか。東京の劇作家、演出家である西尾佳織さんから、今度京都で勉強会するので、良かったら参加しませんか?とお誘いをいただいた。私は、西尾さんという劇作家を知る機会になるんじゃないかという興味と、この会が自分の知的好奇心をくすぐってくれるかもという非常に受身な気持ちで参加を決めた。

知的好奇心から参加したのではなく、普段発動しない知的好奇心が「何か」によって立ち上がる気配を感じたということだ。スタートとしては少し残念な動機であった。しかしこの勘は当たっていたことが後々分かる。私すごい。

また、その勉強会があるという時期は、現在取り組んでいる「私の家族」という演劇作品の戯曲を仕上げるための大事な期間でもあったが、いつものようにそんなことは気にもせず参加を決めてしまった。途中で、まずい、勉強会に参加している場合じゃなかった!と焦ったのはいうまでもない。

ただこれに関しても、私は私が、戯曲を書いている時の自分の生活が執筆に非常に大きな影響を与えることを忘れていた。年々、深く潜れるようになってきて、まるで深海から空を見上げるように、ぼやっとした抽象的なものではあるものの、やはり生活やその生活に基づく感情の揺れが、そのまま戯曲に影響するような生き方をしている中で、

今回の執筆期間に「内臓語に潜る旅」に参加したことは、単純に執筆時間が減るということを除けば、戯曲にとても良い影響を与えたと思う。

さて、夏から月1回のミーティングを重ね、参加者それぞれがそれぞれの興味とテーマを掘り下げながら、11月の報告会に備えて準備をしていた。私は、内臓語のことが頭の片隅に時折現れたり消えたりしながら、結局、戯曲の執筆に始まり、子育て、公演の残務処理、助成金の申請、会社の立ち上げにおわれていた。

  • 西尾佳織の目的

そんな折、とあるミーティングで西尾さんが、実はこの会って、それぞれが自立した状態で自分の興味を掘り下げていく中で、それを持ち寄って何かできないか、という実験のための企画だったんだよね、と言い出した。別に西尾さんの興味に付き合ってほしいわけじゃないんだと。

マジで!とびっくりした。私は額面通り、この会の題名ともなった吉本隆明さんの「内臓語」にすごく引っ張られていた(この会はそもそも、吉本さんの言う「内臓語」というのについて考えてみましょう、という会だった)し、その中で、すごく興味のある部分として息子の言語獲得についての本を読んだり、あんまり興味の持てない部分を持て余したりしながら、なんとなく、それでもまあ、参加するって言ったしな、的に過ごしていたんだけど、そうじゃないんだと。

あんたの興味はどこにあるのかと。あると思っていたところになくても良いのだと。なければ違うことを探すのか、参加するのをやめるのかも自分に権限があるし、それぞれが自分の好奇心に従い自走している状況でそれを持ち寄り、お互いの興味関心を突き合わせていくことに意味があるのであって、西尾佳織が自分のやりたいことをするためにこの場所を引っ張って行って、彼女のやりたいことを探る会ではないんだと。そう言われたのだった。

  • 知的好奇心

さて、話はそれるが、知的好奇心、英語で言うとIntellectual curiosity、皆さんはお持ちだろうか。私の脳では、好奇心は通常「家事」と「子育て」「自己啓発」「稼ぐ」に働くよう、設計されている。この4つのことになると私は、夜も眠らず本を読み、時間をかけて地道に解釈を改善していく、という作業が苦もなく出来てしまう。なぜならおそらくそれらは皆、生活に即しているからだ。生きていくための急務だから興味が持てる。

しかし私は気がつけば、劇作家、演出家として40歳を迎えている。上記の4つのことに比べると、舞台芸術に対する好奇心が弱い気がするとは、薄々感づいてはいたのだが、だからこそ自分を「劇作家」とはっきり言うことができなかったし、生活にしか興味のない自分を恥ずかしいと思ったまま、自分をごまかしてここまで来たのだった。でも、内臓語に参加していくうちに、気がついた。どうやら私は、生活に即さないことに夢中になることに、罪悪感を感じている。

  • 私の好奇心

さて、生活が有り難いことに安定している今、はっきり言うと、「生活に即さないことに夢中になる」余裕が私にはたくさんある。でも私の好奇心を閉じ込めている檻の鍵は、だからといって簡単には見つからない。私は私の知的好奇心が一向に発動してくれないことに、ずっとずーっと、ジレンマを感じていた。

しかし待っていても仕方がないのでとりあえず、今最も興味があることのうちの一つ、息子が言語を獲得していく過程を発達心理学、認知科学の観点から研究した「ことばの発達の謎を解く」(今井むつみ*ちくまプリマー新書)を読み、すでに貪るように読んでいたアドラー心理学やモンテッソーリ教育についての知識を息子(1歳4ヶ月)の子育てで実践し始めた。

褒めない、叱らない、命令しない、決めつけない。

この4つを避けて赤ちゃんと接するとどうなるかご存知ですか。
私のような人間は、まず、喋ることがなくなるのです。

  • 好奇心の実践

保育園に迎えに行く。私には、彼の荷物をまとめて彼に靴下とジャンパーを着せて外に出る、というミッションがあるのだが、以前ならそのミッションをすぐに行い、「抱っこ」して連れて帰っていた。

しかし息子は最近歩けるようになっている。なので、「抱っこ」は「世話」というポジションから、一歩間違えると「私の意思を無理矢理発動させる行為」となってしまったのである。無理に抱っこしない。「早くしなさい!」と命令もしない。「置いていくよ」と脅さない。「ちゃんと自分で履けたね」と褒めない。でもこっちはこっちで、先生に残業させるわけにもいかないというジレンマがあるので、早くこの部屋から出したい。難しい!!何より時間がかかります。

とはいえ、ものすごく難しいことではあるんだけど、自分の好奇心と彼の好奇心が、それぞれあることを認め、それを邪魔せず、お互いの関心がクロスするかもしれない時に言語を使い、自分が何かをしてもらったら感謝する、それ以外で相手をコントロールするための言語を使わない、という形を実践していく中で、

これが、西尾さんの言うように、大人同士でもできたら最高だなあ、と思ったのだった。

子供が、叱られたり命令されたり褒められたり、大人が未来を予測して(勉強のできる子になって欲しいとか、まともに育って欲しいとかであっても)コントロールするために言語を使う大人に育てられた場合、自分も大人になった時、言語をそういうツールとして使用するのではないか。他者をコントロールしたり他者にコントロールされたりという関係が「言語」によって、なされてしまう。それが普通になってしまう。でもそうすると、やられている方は、怒られないように相手の機嫌を伺うようになってしまう。褒められても言語の裏を考えるようになってしまう。何より他者にコントロールされることでしか、自分の言動を決められなくなる。

でも、好奇心の掘り下げのために言語を使う大人と共に育った時、子供もまた、真似をして言語をそのツールとして使い、罪悪感など感じず、夢中になれるのではないか。そして言語を、他者のコントロールのために使用することがなくなるのでではないか。

好奇心と言語の間には因果があるということを、彼に付き合う中で私は教えてもらった。そして、内臓語が並行してあったために、それがはっきりと言語化され、私の脳にくっきり刻み込まれるという機会を得たのだった。

  • 私の執筆中の戯曲について

私が今書いている戯曲は、一人の女性が、たくさんの家族を殺し合いをさせることによって崩壊させていった、と言われている事件を基にしている。その女性にさえ出会わなければ、みんな普通に家族生活を送っていたのではないか、と言われることが多いのだが、私にはそれが不思議でならなかった。本当にそうだろうか。確かに彼女がいなければ事件は起きなかったかもしれない。でも、彼女一人でも、やっぱりその事件は起きなかったと思うのだ。

人は関係性の中で生きている動物で、人のキャラクターは関係性の中で決まっていくと考えると、彼女とその周りの人たち、すべての要素が揃って、あの事件になった、と言えるのだ。

私は、その事件が起きた要因の一つとして、主犯となったその女性に、「知的好奇心」がなかったこと、目の前の「他者」に興味を持ちすぎていたことが挙げられるのではないかと考えている。それこそが私との共通点でもあり、私の関心どころなのだ。

関連本を読んでいくと、彼女は「買い物」と「パチンコ」、そして家族との関係づくり以外に、やることがなかったそうだ。そりゃそうだろう。生活以外に興味が持てない。彼女自身、両親の機嫌を伺い、言語の裏を読み取りながら生き残ってきた。彼女の世界はとても狭いものだった。買い物とパチンコ、そして家族いじめに依存し、それらを続けるために、金を稼ぐために、あるいはストレス発散のために、家族に殺しあいをさせていった。

最も注目すべき点は、彼女は言語を「他者をコントロールするツール」として使いこなしていたことだ。彼女にとってはそれは「コミュニケーションツール」だったのかもしれない。でもコミュニケーションという大義名分で、彼女は次々に人をマインドコントロールしていった。

また、多くの被害者は、コントロールしてくれる彼女に吸い寄せられていったように見える。だって、彼女自身は、体力もなければ権力も武器もない、ただの中年女性なのだ。それなのに誰も彼女に逆らえず、怯えている。これもまた、言語でコントロールされることに慣れていたせいなのかもしれない。

念のために書いておくが、私は「被害者にも非がある」ということが言いたいわけではない。ただ、特に最後に残った「共犯者」と呼ばれる人々は、生き残るために彼女に迎合し彼女をサポートし、彼女に絶対服従した。そうしなければ死があったからだ。そこでは、壮絶な、サバイバルが繰り広げられていた。私が言いたいのは、彼らのサポートなしでは、主犯の女は、人を殺すことなどできなかった、ということだ。

人は誰でも憎しみや悲しみを抱えている。その疼きを抱えながら、生きている。でもそればかりにフォーカスしてしまった瞬間、自分の、他者の存在自体を許せなくなってしまう。主犯の女性は自分の憎しみに常にフォーカスし、他者の憎しみをうまく取り出してフォーカスさせることで殺し合いを促した。

リーダーに迎合し、サポートし、服従を誓う。これは命の危険がなくても集団の中でよく起きる現象だ。そこには「言語」が大きく関わってくる。そしてそういう「言語の使い方」は、自らが幼少期に言語を獲得していく過程で経験したことが、割と大きく関わっているのではないかと考える。人間が自分の知的好奇心を自由に羽ばたかせるためには、羽を絶対的に安心できる場所で十分に広げきった経験がないと難しい。羽を広げる機会がなかった子供は、大人になってからでも、羽を広げ、飛ぶことはできるのだろうか。

  • 集団と言語

さて、私が今、夢想している集団とは、言語を、自身の知的好奇心を掘り下げるためのツールとして使用している人々の集まりだ。それぞれは自分の研究対象に興味があり、それを掘り下げていく途中で、他者の研究とリンクする場所が出てきた時に、初めて他者と出会い、助け合うことができる。他者の研究を通じて他者に興味を持つので、その人を叱ったり褒めたりその人に命令することは何一つない。またリンクが終われば、それぞれはそれぞれの研究へと戻っていく。

もちろん、そんなにシンプルな集団が作れるとは思っていないんだけど、こういうのがいいなあ、と一つ、はっきりさせると、それを目標にして自身の言動が統制されていくように思った。

しかし私の羽はまだ、広げる機会がないまま、鍵のなくなった檻の中で折りたたまれてしぼんでいる。自分が羽ばたけないのにそんな集団を夢想するなんて馬鹿げているだろうか。

  • 小川さやか氏

「その日暮らしの人類学」の著者であり人類学者の小川さやか氏をゲストに迎え、勉強会を行った。わたしにとって小川さんとの出会いは、まさしく「研究に夢中になっている人」との出会いであった。彼女は自分の研究に夢中で、彼女の研究と私たちの興味がリンクするところがあれば、目が輝くし、そうでなければ特に興味を示さない。それが気持ちよく行われている方だった。また何かお呼びして、お話を伺いたい方の一人である。

  • 砂連尾理氏

砂連尾さんは、同じ京都で活動していながら、初めてお目にかかった方だった、彼のインタビューをそれぞれ文字起こしして突き合わすという作業を勉強会でやった時に、あれだけ論理的な方なのに、発語のほとんどが「あのーそのーでね?ていうか、まあつまり・・・」といった、意味のない感動詞に言語が支配されていることに、衝撃を受けた。
文字起こしをして、それを他の方と突き合わせて、一晩たって考えてみると、そう言った感動詞を多用することで、彼は断定を避け、笑いを呼びながら会話に揺らぎを発生させているのかもしれないと思い始めた。その実、頭の回転の早い人で、おかしいことをすぐにおかしいと見つけることのできる人なので、そう行った「ただしさの刃」で相手を傷つけないための工夫なのかも。

ちなみに文字起こしをして発見したことは、自分がいかに「人にどう見られるか、思われるかを考えていないタイプ」で「雑」で「取扱説明書を読まないタイプ」であるか、ということだった。それが、私の戯曲にもよく現れている習性だとも思った。「編集したくない」という敬意を持つ割に、思い込みの中で文字を書いている。まず物事をそのまま取り出し、そこに自分なりの解釈を加えていった和田ながらさんのインタビュー記事を読んで、衝撃を受けた。そうそう、そういう風にしたら、読みやすいよね、と思うのに、自分ではできなかった。経験の差もあるとはいえ、これには驚いた。

  • リサーチメンバー

林くん、山本さん、和田さん、西尾さん、堀越さんと私が、最終的に頻繁に顔を合わすメンバーとなったのだが、私は、自分が自分の作業に没頭すればするほど、皆に好感を抱くことに驚いた。彼らは私よりも10ほど年下の若者だが、私よりも知識があり、頭の回転が早い。彼らはそれぞれ自分の興味に夢中であり、お互いの違いを認め、尊重し合う力を持っていた。勉強させてもらうことばかりだった。そういうことが、相手ばかりに注目していた頃より見えてきたのだった。

芸術センターの堀越さんは、これまた一際お若いにもかかわらず、良い感じでタイムキープやまとめをしてくれた。正直言うと京都芸術センターのコーディネーターたちは、仕事量が半端なく、身を粉にして働くオーバーワークな方ばっかりだと感じてたんだけど、彼女は勉強会中にちゃんとご飯を食べれる肝の据わった方で、かつ、物怖じしないので、そういうタイプならここでもやっていけるんじゃないか、としみじみ思った。そういえば私は芸術センターに関わって、もう20年近くになるんだ。

今までで参加した芸術センターの催しの中で、最も楽しく、素晴らしい機会となった。

  • これから

「想像力」は簡単に被害妄想に結びつくし、「思いやり」は強要や押し付け、暴力に発展する。よく言われる「相手の気持ちを考えなさい」という声かけには、今や恐怖を感じるばかりだ。私は相手の気持ちを考えるのが得意だと思ってた。でもそんなの得意になってどうなるんだ?そんな危うい幻想にもたれかかって、公私にわたるパートナーと共倒れした経験が幾度あったことか。

御所で息子が遊んでいる時間。私は彼の安全だけに注意を払い、あとはぼうっとさせてもらう。風が吹いて、真っ赤な落ち葉が舞う。息子が目を丸くして風を見る。この揺らぎの中で、羽がひとりでにふわっと浮いた時、私は自分の羽が閉じ込められている檻に、天井がなかったことに気がつくのかもしれない。

私はこれから、自分の興味を掘り下げていく中で、それを通して他者と出会いたい。私の穴を一緒に掘ってくれる人ではなく、それぞれ掘り下げていった先に出会う大きな穴で、お互いに持っているものを見せ合って、交換したり言葉を交わしたりする。情報交換をしたら、またそれぞれの穴掘りに戻る。
そういう作業を、創作仲間や、息子や、夫として行きたい、と思ったのだった。

それにしても、私がこういうことばかりやってるのを、温かく見守ってくれる夫に感謝だ。

 

内臓語にもぐる旅共同リサーチプロジェクト@京都芸術センター2017年8月〜11月

 

笑の内閣「名誉男子鈴子」

とりあえず大千秋楽が終わってからアップしようと思って書き留めておいたものです。
思考を整理するために書いております。

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アフタートークにお呼ばれしたので、観に行きました。
チラシを見たときに、いつものチラシはあんまり好きじゃないんだけど、今回のは知り合いの中谷和代さんが中央にばーんと出ているようなもので、嫌な感じはせず、目を引いた。中谷さんの作る芝居とあまりにも違う笑の内閣。その組み合わせの妙が興味を引いた。

芝居が始まって、1時間40分、退屈だと思う瞬間はなかった。話はベタに進んで行くし、ベタなものは楽チンなところが好きだし。客席が湧いても全く笑えないし、笑えないのはやっぱり変わらずか、と思っていたけど、高校の先生(延命聡子さん)には笑わされた。あの人はコメディエンヌなんだな。

終わって、トークの時に「私のリテラシーが上がったので、楽しんで見ることができました」と述べた。以前は全くダメだったのに、拒絶反応が出なかったからだ。それはきっと、相当に身構えてみたせいもあるし、トークに出るという前提もあっただろうけど、何より、「メタコミュニケーションに気を取られず言葉の内容をしっかりと聞く」という訓練だと思って観たからだ。

私は、ついつい、人の仕草や体の動き、その場を支配する空気に気を取られ、言葉を聞けなくなる。それは対人でもそうだし、観劇でもそうだ。

笑顔で「よろしくお願いしまーす」と言われても、その人の体が拒否してたら、嘘をつけ、と思ってしまう。

芝居をしている俳優の身体が意図せずぎこちなかったり、何の間かわからない間が意図せずあると、一気に冷めちゃうのだ。そのセリフ、誰に向かって喋ってんの?とか、今回も山ほど思った。

だから、その部分がしっかり作られている芝居に惹かれるし、人間も、その部分に嘘がない人とは付き合いやすい。(てか、その部分に嘘があるかどうかなんて結局誰にも見極められないんだから、私が傲慢なだけなんだけど)

閑話休題。
そういう自分の反応に対する対策を練っていたので、割と言葉の意味の部分で楽しめた。俳優さんたちに皆、好感が持てたのも良かったと思う。誰も悪い人などいない。市長を演じていた人すら愛らしかった。そういうところは、高間節だなと思う。

トーク後半ではパンフレットに書いてあった高間くんの人間関係についての苦しみみたいなものにゴシップ的に言及し、私は高間くんが、割と表立って毒舌を吐く割に、自分が体裁を壊されると弱い、ということを知った。人間らしい面が見れて私はよかったけど、まあ、そういうの、お客さんはどうだったのかな。

で、終わって、もちろん帰れば我が子の時間があるわけで、芝居のことを忘れ、1日経ち、一人になってふと芝居のことを思い返したわけだが、

1日たっての感想としては、「女性の権利を叫びながら実際は女性を差別している」という言葉の通りの芝居だったな、ということだ。

私はそのキャッチフレーズが、実際にはどういう人間関係の拗れに発展するのか、ちょっと興味あったんだけど、なんというか、そのまま、だった。脚本の段階で、複雑さがまず、全くない。市長は悪者だし、市長の二番手は嫉妬にまみれているし、建設会社の社長は自分の利益だけを考えている。女っぽい甥は女性的だし、大学生は「なぜ?」と疑問を持つ。確かにそうなんだけど、それ以外の部分が垣間見えない。(そういう意味でいうと、池川さん演じる麦部がよく分からないキャラとして一番リアルだったと思う)中谷さん演じる鈴子も、表情から発言から、何から何まで非常にカリカチュアされた演技をするのだが、それが決して演劇ではなく事実としてあり得るのだと昨今ニュースで知らされた以上、

高間氏のオリジナリティはどこにあるのか、という思いが湧き上がってきた。

女性がのし上がっていくには、結局支配している男性の力を借りなくてはならない、という道は確かに現存するし、ものめずらしいものではない。ただその仕組みをそのまま立ち上げるだけでは、私には物足りない。ドラマが見たい。高間くんは、そんなもんには興味ないのかもしれないが。

私は、現存する人物や事件、世の仕組みを目の前に置いて、その場を借りて、一筋縄ではいかない複雑な人間を立ち上げ、その人間たちがどんな風に関係を紡いでいくのか、それを描く演劇が好きみたいだ。そういう意味では、最後の、娘が母を支えて家に帰ろうという部分だけは、わずかにオリジナリティを感じたが、その一瞬のために存在した他の一切の紋切り型キャラクターが不憫な気がした。

ただ、ただですよ、こういう紋切り型のキャラクターだけを出して、ド派手な演出で、2時間弱を楽しませ続けるというエンターテイナーを目指すのであれば、ぜひこのまま突き進んで欲しいと思う。そこを買ってるお客さんも多いだろうし。だが、もしそうだとしたら、1枚1万円前後の値段がするエンターテイメントを何本も何本も大劇場で観ていただきたいとも思う。そしてできれば、力のある劇作家と組む。別にその人たちの真似をする必要はないけど、今はただ、事実として、その面で、負けている。

高間くんを見ていると、自分自身をネタにし、身を粉にして生きているのがわかる。実際に会って喋ると、物腰の柔らかい、優しい男性だ(目は合わしてくれないけど)。女優に次々手を出す劇作家、演出家とは世界が違う。奥さんが大好きだとパンフに書く高間くんが、私は好きだ。

だから今後も、活躍して欲しいなと思いました。

ああ、頭の中が整理されました。
こんな機会をありがとう。笑の内閣の皆さん。