投稿者「yamaguchi」のアーカイブ

『私の家族』12月23日

稽古が始まって間もない頃、長尾さんがモリ役の中田春介さんのことを「山口さんのやり方を面白がれる人だと思う」とおっしゃっていた。その言葉の通り、中田さんは稽古場での出来事を面白がって眺めていらっしゃるように見える。山口さんの演出をわだかまりなく聞き、飄々と思ったことを口にされる。口数は多くないものの、中田さんの飾り気ない所感でその場が和んでいる。

文責:大貫

『私の家族』12月22日

だいぶ遅くなったが、訥々と役者紹介を更新する。
クミ役の吉岡あきこさん。多種多様なバイトをされており、稽古場でもその経験談が時々語られる。(この日の稽古では家電量販店でバイトされていたことが判明した)その体験からか周囲への目配りが利いていて、私が気がつかないところをしばしばアシストしてくださる。どんな種類のお酒でも飲める。そしてお酒の席でもさりげなく気を利かせてくださる。至らない演出助手ですみませんという気持ちで頭が上がらない。

文責:大貫

藤野節子さん降板のお知らせ

この度、「私の家族」に出演予定でした藤野節子さんが、体調不良のため降板されました。藤野さんの出演を楽しみにされていたお客さまには謹んでお詫び申し上げます。藤野さんは懸命に稽古に挑もうとしてくださいましたが、話し合いの末、体調を優先して頂くことになりました。

変わりまして、青年団に所属されている天明留理子さんにご出演いただくこととなりました。

本番まで四週間を切りましたが、キャストスタッフ一同、より一層創作に集中してまいります。どうぞよろしくお願い申し上げます。

なお、藤野さん降板によるチケットキャンセルをご希望のお客様は、お手数ですが、このウェブサイトの問い合わせフォームや、予約時にやりとりいたしましたメールアドレス、お電話番号にてご一報くださいませ。

トリコ・A主宰 山口茜

私の家族 12月21日

稽古中、座組最年少の昇良樹さんはよくいじられる。今日はプロンプの席に立派な椅子が勝手に置かれて、先輩を差し置いていい椅子に座る偉そうな若手俳優の図が演出された。そうしたパワハラ寸前のからかいを、昇さんはすべて爽やかな笑顔で受け止める。清々しいまでに邪気がない。しかし、「好青年」と単純にレッテルを貼ってしまうのがためらわれる。(いや、間違いなく好青年ではあるのだけれども。)白黒割り切れなさそうな不思議な底知れなさがある。きっと昇さんがあまりにも素直で(しかし流されずに物事を自分の基準で考える芯がある)、私とはかけ離れた人なので、掴み所がないと思ってしまうのかもしれない。

役者が数名不在ながらざっと通してみる。「(さらっと通してみると)いろいろな関係性がよく見えてくる」と山口さん。万全ではない稽古場でできることを探る。

文責:大貫

私の家族 12月20日

午前中はシアター・アクセシビリティネットワークさんにお越しいただき、山口さんと一緒に字幕作成の講習を受ける。『私の家族』は聴覚障害の方のために字幕作成を、子育て中の方のために完全無料の託児サービスを行う。演劇の社会的価値を言語化できる演劇人はたくさんいるけれども、公演へのアクセスを良くするための取り組みができている演劇人はそう多くないと思う。山口さんの思いと行動力が伝播することを望む。

15時30分から書き直されたシーンを中心に稽古。人物の関係性がよりわかりやすく明示される。カヤ役の長尾さんが、カヤの行動に一本筋を持たせるための重要な提案をする。長尾純子さんは筋が通った人という印象だ。自分の意思を表明するのを恐れないし、流されない。意志薄弱な私はやるべきことがあったとしてもつい飲みに行ってしまうし、終電も逃す。だが長尾さんは、きっちりと自分が帰るべき時間になれば帰り、断るときは断る。だが全くかたくなではない。自分の主張をするというよりも、場が合理に叶った方向に進むために意見を言ってくれているように私には見えている。
稽古後は中田さん、あきさん、昇さんと飲みに。(長尾さんは台詞を覚えるために断った) 熟睡してしまい、1日おくれで日誌をアップする。

文責:大貫はなこ

私の家族 12月17日

通し稽古をした後に、今日で京都に一旦帰ってしまう藤原さんのシーンを重点的にさらう。

藤原大介さんについて私が知っている二、三の事柄。
数多の修羅場をくぐり抜けて身についたのであろう、潔いが、抑制されたお酒の飲み方をする。じうちゃん(山口さんのお子さん)の相手が上手。稽古場でも飲み屋でも、場の空気を作ってくれる(決して自分を中心に場を回すというのではなく、慎ましやかに)。今回の現場では、誰よりも正確に台詞を覚えている。場が膠着しそうになったとき、山口さんのイメージを補完する的確な言葉を差し出してくれる。

藤原さんは今日の稽古で、人物の造形や関係性を際立たせるために非常に有効な提案をなさった。これからもっと作品は深まっていくはずだ。稽古後は山口さんと、演出助手の朴さんとミーティングを兼ねて定食屋に。テキスト、演出などの創作面からパンフ作成などの実務面まで話をする。『私の家族』とトリコ・Aへの朴さんの熱意に心動かされ、私ももっと山口さんと作品についての話をしてみようと思いを新たにした。

文責:大貫はなこ

私の家族 12月16日

稽古場でアキラ役の昇さんはプロンプも務めている。「新劇の若い俳優は必ずプロンプをするんだよ」「昇くん、絶対に勉強になるよ」などとみんなで冗談半分で扇動してやってもらうことになったのだが、正直私はプロンプという職分が自分の手から離れたことにかなり安堵した。御多分に洩れず、私は一応役者から演劇を始めているが、演技への適性は全くなかった。人前が苦手とか、身体が動かないとか理由はいろいろある。だが最も大きな要因は、自分が何かアクションを起こすことで場の空気が変容してしまうことへの躊躇だった。人間同士のぶつかり合いが怖いから、目の前の情報を遮断してしまう。そんな私だから、プロンプを出すのも恐々としてしまう。
今日の稽古を見ていて、役者にとっての最優先事項は現場や臨場で生成される出来事を鋭敏に感受することだ、という当たり前の事柄を再確認した。山口さんは、4場の稽古で、言葉の抑揚を制限してもらう演出をつけた。役者があらかじめ準備してきた感情の表現を見せるのではなく、生身の人間同士のやりとりから生まれる名状しがたい何かを伝えたいという狙いだった。だが、初の通し稽古を終えて、その指示は一度リセットされた。言い方にとらわれるあまり、役者が目の前の人とのやりとりに集中できなくなってしまうことが理由だ。
「この通し稽古は1時間45分を通して(相手からのアクションなどで)自分がどう変化していくか確認するための作業にしてください」と山口さんは言った。舞台上の人と人の関係性を極力シンプルな形で客席に届けることをこの作品は目指している。今はそのための試行錯誤を繰り返している段階だ。丁寧に堅実に人間関係を描いたときに、言葉の表層の意味を超えた詩情が見えてくるはずだ。

文責:大貫はなこ

私の家族 12月15日

今日の稽古は京都からいらしたスタッフさんやそのお子さんなどギャラリーが多数。普段とは違う眼差しが注がれる緊張感を子供たちのいとけない笑い声が和らげる絶妙な空気の中、稽古は進んだ。
今日は2場の終わりから4場の冒頭まで。山口さんは自身が書いた言葉の強度から逃れて、いかにフラットになれるかを試しているのかな、と感じた。自分の手で捉えた世界を、批評眼を持って眺めることができる作家は多くないように思う。しかし山口さんは、作家としての作品への解釈を演出する上では持ち出さない。挙措や間、口調などを指導するのみで、役の感情へは踏み込まない。「この人は今こう思っているんだよ」ではなく「この人は今こう見えるんだよ」と説明する。そして、作家として解釈を押し付けることはないけれども、演出家として” こう見せたい”という明確なビジョンはあるので、強い推進力で稽古場を牽引していく。
稽古後、今日は中田さんと長尾さんも交えて飲みに繰り出す。みなさんの演劇遍歴などを伺う。花金といえども森下の夜は早い。節度を持って23時にはお開きになり、明日への英気を養う。

文責:大貫

私の家族 12月14日

1場、2場の動きを細かく。
家族写真を撮る場面で、山口さんはあるアイデアを新たに試みた。一昨日の稽古で「イライラ感は出さずに楽しんでいる感じを出したい。リアリズム演出は目指さない」と語っていたシーン。観てからのお楽しみにして頂きたいので詳しくは書かないが、狙いが功を奏して、緊迫した作品のトーンを和らげつつ、逆説的に不穏な空気感を高める効果を獲得しているように思えた。
稽古後は藤原さん、あきさん、昇さんと飲みに。昇さんの、何でも腹蔵なく打ち明けているように見えるのに掴み所がない人柄を不思議に思いつつ、ほろ酔いで帰路につく。

文責:大貫はなこ

私の家族 12月13日

2場に細かく動きをつける作業。
俳優が用意してきた心理や情報をあえて壊す。動きを制御したり、細かく動きをつけたり、色を消すために台詞を音として発語してもらったり。俳優に負荷をかけることで、役への解釈や感情を密閉する。
「感情に名前をつけてしまうことへのアンチテーゼ」と演出中の山口さんは言った。言葉で定義してしまうことで、演技は俳優の解釈の説明に堕したり、「こういう人がいます」という見本帳になってしまう。
「(動きのクセがリセットされた俳優のことを)パフュームみたい」「だけど、ロボットのような演劇がしたい訳ではない」
ニュアンスや情報を削ぎ落とした俳優の、生身の身体の豊かさ。人と人がただ対峙するだけで生まれる関係性の面白さ。俳優に飾り気のない状態で板の上に立ってもらったとき、むしろ観客にはより豊潤な見方が許される。それは、演劇という表現形態だからこそできることは何かという問いへのひとつの答えなのかもしれない。

文責:大貫はなこ