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財産没収稽古2017.06.23

この日は実に2時間のみの稽古。
前回の稽古が、じうのお熱で早退ということになったので、私抜きで3人が進めてくれたシーンについて、説明を受け、実際にやってみてもらった。

全部でA47ページあるこの戯曲。
現在、5ページ目を検討中だが、ここまでの流れを説明すると、

テネシーウィリアムズが、ふと、空き家に入る。酒瓶片手に、一室に侵入すると、そこには姉さんが座っている。テネシーは驚き、姉さんに触れようとすると、ふと消えてしまう。

テネシーはこの空き家の雰囲気と姉さんの幻影から、インスピレーションを得て、戯曲を書き始める。そこへ恋人が追いかけてくる。恋人は、テネシーを連れて帰りたいのだが、テネシーは戯曲を書くのに必死だ。時折セリフを口走りながら、妄想を文字で捉えようとしている。恋人はテネシーを襲い、テネシーは恋人を瓶で殴って気絶させる。

テネシーの紡ぎだす劇世界は、部屋に転がっていたトルソーや恋人をも利用してどんどん広がっていく。ふとテネシーは、幻影の姉をもう一度「見る」。テネシーはいよいよ劇世界へ没入する。

という感じまで進んでいる。

で、今日。

恵美ちゃんは、不動産を差し押さえに来た州の調査官。オープニングで高杉さんが見た「姉さんの幻影」は、実はこの調査官で、彼女はテネシーとは違う時間軸で、その家を差し押さえに来ている。時間軸が違うので、テネシーにとって彼女は幻影だし、彼女からしても、テネシーには一切気がついていない、という状況。

という前置きを経て、
高杉さんたちは、私が休んだ間に、

*物音に気がついて、恋人と息をひそめる。

*調査官がやってきたようだ。

*鑑定士が懐中電灯で辺りを照らしながら家の中を歩いている、テネシーたちは、彼女に気付かれぬようこそこそとしゃべる

というシーンをこの5ページを使って、作ってくれていた。

初めてそのシーンを説明してもらった時、私はパニックになった。
なぜなら、そのシーンを、本来のストーリーに基づいたセリフを使って表すからだ。

本来のストーリーでもそこの部分は調査官について語っているので、そういう意味ではやりやすいのだが、やはり合わないセリフは歴然とそこにある。それを無理なく使うためには、

調査官だった恵美ちゃんが、アルヴァになったり、
テネシーだった高杉さんが、ウィリーになったり、

するのである。
何の前触れもなく。

その「役が重なり合っている」ということを、お客さんに伝える努力を放棄し、イメージだけで「整理した気分」になり、乗り越えようとすると、破綻するのはわかっていて、

でもどうしてもイメージだけで進むしかないシーンもあって(なんせセリフが変えられないので)

この「だまし絵を劇化する」という作業の難しさを改めて痛感した。

それでも何とか5ページを終え、6月最後の稽古になるこの週末で、最後の6、7ページを仕上げることを決意して、私たちは別れた。

財産没収稽古2017.06.17

4ページの、ダンスのシーンが保留になっていたので、そこをまず暫定でも作ってから次に進むことになった。

まっちゃんとトルソー
高杉さんと恵美ちゃん

どうやって入れ替わるかという問題にぶつかる。部屋の真ん中には、調査官によって仕切られた赤い線がある。この線を越えること、超え方などの問題。ここでは、この線を一旦外して踊るということに決まる。そろそろ、この線が何なのか、何色で、どういう風に貼られているのか、を考える必要性。

そして、ダンスのシーンをとりあえずシンプルに作り上げ、先に進むことにした。

この日には「まっちゃんが高杉さんを襲い、抵抗するので瓶で殴って犯す」としていたシーンを、やはり初演と同じに戻そうという話になった。まず、「犯される」というシーンを作る困難さと、そこまでして犯した人と犯された人がそのあとどういうモチベーションでそこにいるのかという難しさが相まって、だ。

財産没収稽古2017.06.14

まず最初に、ここまで作ったシーンの通し。
その通しで、「恵美ちゃんの座るタイミング」を再考し、高杉さんがトルソーを立てると恵美ちゃんも座る、というふうに決める。

次に、「この財産を没収す」というセリフを、3人ではなく、高杉さんと恵美ちゃんでいうことにする。この時の二人は、テネシーとその姉、という関係だ。二人でこのセリフを発することで、いよいよこのヘンテコな世界がスタートする、というイメージ。

これまでテネシーに対して、妄想を嘲笑っていた恋人のまっちゃんも、この辺りから、テネシーの劇世界を共有しようと歩み寄ってくる。しかし、そういうことにするためには、一旦自分の欲望を満たすためにテネシーを殴って襲いかかった、という過去をやや持て余す現実。

ここで高杉さんから、演技する上で、誰の声を聞いて、誰の声を聞かないか、ということの整理を重要さが告げられる。確かに。私は勝手に、解釈しているが、演じる側がそれを明確に持っていると、見た目や舞台上の空気も変わってくる、ということ。

それから、初演では「テネシーのインタビュー」としていたシーンを、改めて作り直した。

ここまで、あくまでテネシーの妄想内に現れていた姉としての恵美ちゃんが、ノンコントロールになってこの場から逃げ出してしまったりする面白さ。あるいはまっちゃんが恵美ちゃんにのしかかり、恵美ちゃんが逃げる、という初演の構図を、逆にしてみるという可能性。色々と脱線したりしながら話し合った。

この日は4ページを主に作った。

喫茶店とつぐむ

八尾プリズムホールへの「つぐむ」という本を書きました。まだ第一稿なので荒いのですが、書いた後の感じと、

あと、先日「私の家族」の戯曲執筆のためのミーティングwith山納さんを開催させていただいて、思うところがいっぱいあったので、

その両方からの徒然を。

私は台本を書くとき、ある程度の速度を持って書かないと掴めない、というような感じを持っていて、その速度を落とさないように一気に書いてしまう。ただ、この20年で物事を少しずつ論理的に考えられるようになって、その分、速度を落とすようになった。

でも、今回はその速度が、まだまだ早いような気がした。

そして、書いている時、手触りを死守しようとするとどうしても、フィクションに行けなかったんだけど、もしかすると速度を落とせば行けるのかも、と感じた。

急に村上春樹の「壁抜け」を思い出した。15年ほど前だろうか。春樹さんのすべての著書を読んだ後に、「壁抜け」を分かったつもりになっていた。でも、今に成って、まだ、実感があるわけではないのだけど、「壁抜け」とはそういうことかもしれない、と思い始めている。全然違うかもしれない。

春樹さんは、走るぐらいの速度がちょうどいい、というけれど、そこはまだ、私にはわからない。憧れて何度、走ったことか。その度に、挫折している。井戸の底に座ったことはない。当たり前か。(ちなみに中身は絶対に真似できないので、私はただの、村上春樹ファンなのですが)

戯曲で、手触りのあるものを書く、ということを死守しながら、しかし、現実では起こりえない(と思っていること)にアクセスしてみたい。

「私の家族」で、それをしたいと思った。

先日ふと、自分の感情の論理性のなさが、急に「見えた」。その時に、私、前より論理的思考が鍛えられたかも、と思った。そしてこれが執筆に生かせるような気がした。

戯曲の構成は非常に重要だ。構成こそが命かもしれない。
そして構成には、論理的な思考が必要だ。
しかし、感情とは、破綻しているものだ。
全く、論理的でない。
だからそこに論理を持ち込んではいけない。
戯曲とは、論理的に組まれた構成という骨組みの上に、この破綻した感情を立ち上げるということなんだろう。引き裂かれている。

閑話休題。

財産没収の稽古をしていると、この戯曲が、壁抜けの可能性を孕みながら、その実「絵画的」になっていることを感じる。「欲望という名の電車」や「ガラスの動物園」では明らかに抜けていた壁が、「財産没収」では歴然と立ちはだかっている。短編なので当然といえば当然なのだが、それを、サファリでは、「演出で壁抜けする」というようなことをしていると思った。

「演出で壁抜けする」

チラシに書いてしまいたいほどのキャッチフレーズだが、壁抜けって、たぶん春樹ファンないとわからないので書けない。

ずっとハッタリに支えられたプライドで生きてきたんだな、と最近つくづく思う。

少しずつハッタリを手放していけている感じがする。

財産没収稽古2017.06.13

今日は昨日まで仕上がった1ページ半の通しから。刷新したセリフの割り振りで、ある程度ざっくりと決めた動きを確認します。

通して見て、大きく二つ、改善点。一つは、恵美ちゃんが何のタイミングでダンスをやめて椅子に座るのか、ということ。オープニングそうそう、恵美ちゃんが踊ることにしているのですが、その踊りの終わりで、すぐに椅子に座りたい、と思っていたのです。しかし、踊る場所から椅子の距離は少しあり、さらにダンスが終わっても椅子の上には高杉氏がしばらくおります。空白の時間ができてしまうのですが、一旦はけるということになると、再び登場するタイミングや意味もまた見つけなくてはならず・・・

暫定で、踊り終わったら、そこに倒れ、高杉さんに起こされて椅子に座る、という動きをつけました。

そして、まっちゃんが高杉さんをおそう問題。
おそうとは言ったものの、最初から暴力的に行くわけではなく、最初は徐々に、恋人らしく、キスをしようとしたり、何なら自分の方を向いてほしいと顔に手をあてたりするようなところから、体を押し倒して瓶で頭を殴るところまで、を少し具体的に決めて行きました。

椿姫のオペラの音楽を流してやってみたのですが、それで即興的に踊ってもらうと、意外とダンスのようでもあったので、少し具体的な動きというよりはダンスに寄せてみます。

休憩後は、まだ手をつけていないところの、セリフの割り振りから。

ここでとてもとても大きな問題にぶち当たります。劇中で「私たち、あの大きな黄色い家で、普通の暮らしをしていたのよ」というセリフが出てくるのです。これのどこが問題かというと、

すなわち、ここがどこなのか、を定義してしまうセリフなのです。

本来の戯曲では、ここは「線路の上」、外です。そしてこの線路の上から、遠くに、ウィリーの住んでいた、差し押さえにあった黄色い家が見えています。それをさして「あの」と言っているわけです。

しかし私たちは、今演者たちのいる場所を「差し押さえられた家」としています。誰の家かわからないが、行政に差し押さえられた家に、フラッと酔っ払ったテネシーが入り込み、そこで劇を創作する、という設定なのです。

であるにもかかわらず「あの」と遠くをさして、差し押さえられた黄色い家の話をするのは、かなり、無理が出てきます。ちなみにこの部分、初演でどうしていたかというと、「大きな声で叫ぶ」ことで、ごまかしていました。

ということを思い出し、4人で大笑いであります。
黄色い家問題は2年前もおそらく、はっきりあったのです。
しかしそれを、声の強弱で、切り抜けようとしたのでした。

いや、正直言うと、比較的全てのシーンをそんな感じで、感覚的に、声の強弱やリズムなどで構成してました。それがとても効果的に見える部分もあったし、もう少し練った方が良かったと思うところも、今回の稽古でたくさん見つかります。

パニックだ、と言いながら、パニックという英語の発音をネットで調べたりしながら(⬅︎現実逃避)、いろいろ話し合うこと数十分。ふと、普通ならこのセリフって、ここまでのセリフのやり取りに呼応していないよな、と気がつきます。

アルヴァ今、お墓の中なの、とウィリーが言うと、大変だね、とトムが返事します。しかしウィリーは、何よ、半分もわかってないくせに、と毒づき、上記のセリフを発するのです。

普通なら「何よ、半分もわかっちゃいないくせに!私、あの黄色い家で、アルヴァの最期を看取ったのよ!」とか言うはずです。なのに、あの家で「普通の暮らしをしていた」ということを主張するわけです。

この齟齬を指摘したところ、高杉さんが、「それや!」と言いました。つまり、ウィリーは、姉のアルヴァの綺麗なところばかり言っているけれど、アルヴァからすれば、それはいいところばかりの説明に聞こえる。私は、普通に、暮らしていた。トイレも行くし、お腹も空く。というような主張にしてみてはどうかとなったのです。

そうすれば、このセリフは、姉のアルヴァからウィリーへのセリフとしておさまり、この後の思い出話にスムーズに移行できることがわかりました。

その続きは、割とスムーズに割り振りが進みました。「この財産を没収す」と、この場所にかけられた札を見ていえば、ここが差し押さえにあった場所であることがわかる。

とにかく、この人は誰なのか。
ここはどこなのか。
どういう設定なのか、ということを明示できるところまで、進みました。

財産没収稽古2017.0611

恵美ちゃんが百均で買ってきてくれたテープで、舞台作りからスタートです。

今日は稽古開始から、セリフの割り振りを確認しました。
前回8割がた決めたのですが、まだ曖昧にしていたところがありました。
それを精査すべく、頭からセリフを読んでいきます。

途中で、少年少女が、自己紹介をするくだり。
立ち止まります。
自己紹介をするということはつまり、この人が誰であるかを劇の中で定義するということ。

そこをクリアするために、改めて、今回の三人の演者は誰なのか、をはっきり決める必要に迫られます。

初演では、

高杉さん→テネシー・ウィリアムズ、ウィリー
まっちゃん→テネシーの恋人、トム
恵美ちゃん→ウィリー、アルヴァ、不動産を差し押さえる州の行政官

という割り振りでやりました。これ、2年前はとても良いわけ方だと思っていたのですが、今回改めてそれぞれの役所と共通点などを吟味してみると、アラがいっぱい!それで、以下のように更新しました。

高杉さん→テネシー・ウィリアムズ、トム、ウィリー
まっちゃん→テネシーの恋人(=腐ったバナナ)
恵美ちゃん→姉、アルヴァ(=ボロ人形)、不動産をさしおさえる州の行政官

トム、というのはテネシーの事で、ウィリー、というのは、ウィリアムズの事。
つまりこの「財産没収」という戯曲は、まさに、テネシー・ウィリアムズの内面の対話、という風に解釈できるのですが、そうだとした場合に、初演の時の割り振りには齟齬がありました。

しかし改めて割り振りを決めたことで、かなりスッキリします。

これに従い、自己紹介も、高杉さんのアイディアですが、テネシーが「トム」と恋人に呼ばれながら、自らのことを「ウィリー」と名乗る、ということにすると、とても見やすくなりました。(初演では、テネシーが恋人を「トム」と呼び止め、なおかつ、自分のことを「ウィリー」と自己紹介していたのです)

この後、トムとウィリーが、お互いに「どうして学校に行かないの?」と聴きあうシーンが出てくるのですが、両方高杉氏が担う以上、この質問に高杉氏が2回答えることになります。しかし、連続で答えると意味がわかりません。

そもそも、初演でもこの2回の質問の合間に、テネシーが恋人に無理やり犯されそうになる、というシーンを挿入していましたので、これを引き続き採用することによって、2回連続の質問のおかしさを回避し、さらに意味を持たせることができそうです。

さて、このシーン、恋人がテネシーを襲うシーン。初演では、恵美ちゃんが「姉」として登場して、転がっていたお酒の瓶で恋人役のまっちゃんを殴り、かろうじて未遂に終わらせる、という風にしていたのですが、

逆に、犯されまいと逃げるテネシーを、恋人が瓶で殴り、犯してしまう、という風に踏み込んでみることにしました。その提案をしてみると、実際に、それが最も有用な解に思えてきます。

前回、恋人の強姦を未遂に終わらせたのは、どこかに、そういうものを見たくない、という私の極私的な感覚が反映されていたのかもと思いました。しかしテネシー・ウィリアムを扱う以上、私が見たいか見たくないか、ということはほとんど関係がなく、どちらが彼の劇世界にとって有用かということが重要になってきます。

どうも、悪童日記を経て、そのあたり、収まりの良い答えに安住せずあえて嫌なところに踏み込んでいくことで核心に迫ることができたりする、という経験が生き始めたようです。

ただ、実際にそれをやるとなると、とてもとても難しいお題です。
決して、生々しいものを見せたいわけではありません。
解釈はそうだけれども、そうだということが伝わるなら別の方法で見せたい。
ここは時間がかかりそうなので、とりあえず、暫定の動きを決めます。

恵美ちゃんやまっちゃんに、あえて、全然違う動きを提案してもらいます。
なかなかに難しい道のりです。

そして休憩。

男性陣がタバコに行った間、私と恵美ちゃんで、おにぎりを食べながら、恵美ちゃんが誰なのか、という話をします。

というのも、姉という役割だけなら筋が通っているのですが、彼女は、この家を差し押さえる行政官の役割も果たしているのです。この行政官、本来はウィリーのセリフの中に出てくるだけの存在。

一瞬、恵美ちゃんが姉だけをやった方が混乱がなくて良いように感じます。
でも、彼女が行政官をやることで、とても効果的な芝居に仕上がっているのも確か。

少し考え、彼女が不動産を差し押さえる州の行政官であるということ、それが、はっきりと観客に明確に伝われば、そのあと、彼女が「姉」におさまっても、「両方兼ねている」という解釈をすることができるのでアリだろう、という結論に至ります。

初演では、彼女の行政官としてのアクション、具体的には、この家にテープを張り巡らせて、ここを差し押さえる、というアクションの、リアリティについて、あまり議論し尽くしてなかったように思います。本来、家を差し押さえる時は、家の中にテープをバッテンに貼ったりしないからです。

でもそれは、抽象的な意味で、そうしているのであればオッケーです。
改めて、テープの色、それが抽象的なアクションであること、どのように貼るか、などを相談し、それに応じて、美術のことも少し相談しました。

そして、中央奥に扉を仮に置くことにしました。

実際に、奥に扉、斜めに一本、高さをとってテープを貼り、その状態で2ページ、通しました。

高杉氏と話す中で、「コンセプト」と「物語を起動させるための仕掛け」の違いを、体感としてつかめるようになってきました。これが、すごく、すごく面白いです。こう言う脳内の感覚を言葉で定義していくトレーニング、40歳にして遅いかもしれないけど、させてもらえて、感謝しかありません。

終わりに、詩恵ちゃんとスクが来て、気持ちがふわっと緩みました。

山口茜の日記0611「固結び」

本当はこうしたいのに、そうならない理由は何か。

そういうことを知ろうと思ったら、
まずは自分の中にある、知らぬ間に固結びされた糸を解きほぐす必要がある。

そうかそうか、これか、と思って解こうとしても思った以上に固くて、最初はまるで、真っ暗な井戸の中に放り込まれたような気持ちにさえなるかもしれない。

だめだ、明るいところに逃げ出したい。空気が薄い。寂しい。と感じる。

だけどそこはふんばって、何としてでも解いていく必要がある。

一生懸命糸をほぐしていくと、自分の無意識を育てた人に対して猛烈に怒りがこみ上げてくることもあるし、失ったものを、こうすれば失わずに済んだのか、と知ることができることもあって、

いろんな感情が浮かび上がってくるけど、その都度、それを表へは出さずにまず見つめて、分析して、紐解いていく。(時々表へ出して一戦交えてくることもある)

なんとか踏ん張って、解けたとき、はっと気がつく。

やりたいことが、形になっている。
やりたい人と、組んでいる。
プロセスを楽しむことができるようになっている。

それができるようになると、自信が手に入って、
自信が手に入ると、自分を好きであるということと、自分の行動を批判するということが共存することもままある、ということが受け入れられるようになる。

自分への絶対的信頼感と愛を損なわずして、自分の行動を厳しくチェックできるようになってくると、それを他者への反映できるようになる。

確かに、教育の本には、6歳までの子育てが、その子の人生のすべてを決めると書いてある。
だけど何歳になってもやり直せる。
てか、そうじゃないと、生きていけない。

私はこれからも、ほつれている部分を探しては、それをほぐす作業を繰り返していく。

こんな抽象的な説明で、何がわかるというのか、と書いてから思ったけど、ほんま、最近、こんな感じで生きています。

山口茜の日記0608「怒る」

あの、財産没収の稽古場日誌が、とてもストイックなものになりそうなので、私の日記を別途、挟みこんでいきたいと思います。

私の日記は、ただの徒然、私の頭に浮かんでは消えていったことを書きとめるだけのものです。ストイックを中和させるものに、果たしてなれるのかどうか。

今日は「怒る」について書きます。

私はずーっと、オコリンボでした。

「でした」って書くということは、今は違うの?と思いますが残念ながら今も、オコリンボです。私の夫なんかは、びっくりするぐらい「ヤサシンボ」なので、私が怒り出すと、最近なんかはその怒りが静まる行動を粛々をとってくれます。私も、自分が感情に振り回されていることをなんとか俯瞰して見れるようになってきたので、なんというか、私達夫婦、力を合わせて私の「怒り」を鎮める、という、不思議な状態になっています。

ただ、家族以外の人に対しては、オコリンボになることを、私はここ数年、やめていました。やめていたというか、結果、抑え込んでいた、ということなります。やっぱり、感情に振り回されると、人間関係がうまくいかないからです。単純な論理です。

でも間違えて、ただただ、ズブズブに優しい人、になってしまっていたような感じもあります。ここ数年では一つだけ、とても許せないことが起きた時は爆発してしまいましたが、それ以外ではおそらく、ほとんど、誰にも怒らなかったんじゃないでしょうか。

そんなことができたのは、とても大事な人を失ったからです、それを、私のオコリンボのせいだ、と思っていたからです。

でもね、

そうやってニコニコ、「いいよいいよ」「なんでも受け入れるよ」とやってきた結果、

どうも私、自分の何かを抑え込んでいるような感覚に襲われるようになりました。ニコニコし始めた当初は、「こりゃええわ!」「気持ちええわ!」「私めっちゃ性格良い人!」と思ったものですが・・・最近は、どうも、やりすぎている、やりすぎて、自分の芯までなくなっているような感じ。

私自身が、甘い人間になってる感じ。
私、甘えた人間が、大嫌いなのに!⇦怒っている

私ってやっぱり、「怒り」が原動力なんです。
それは、良いとか悪いとかじゃく、そうだ。

ということをふと、思ったりして。

怒りは、悪いことじゃないんだ。
だって、勝手に沸き起こる感情だもの。
そこを否定するってことは、私を否定することになるんだと、ようやく気がつき、

抑え込まずに観察して、行動に対して論理的に批判できるように、なるべきだと、気がつきました。

それは同時に、自分の行動のチェックにもなります。
私の他者に対する批判的な言葉は、そのまま自分に突き刺さるからです。

そうそう、一番しんどかったのは、ニコニコ他者を甘えさせることで、私が、自分にも甘くなっていたことでした。この辺の塩梅って難しいな。

厳しすぎても、甘すぎても、立ち行かないものね。
だってな、お互いに許しあうだけでだらだら生きてて、勝手に天井から肉や野菜や果実が落ちてくるならええよ?でも、やっぱり、誰かがピリッと立ち上がって、人と折衝しながら、自分の食い扶持だけは確保しなあかんわけですから。

このまま、甘えたのままでは、それが無理やと思ったんです。

ちなみにこういう流れは、ある日を境に急にそうなったのではなく、ここ1年ぐらいのことです。1年かけて、ゆっくり、そういう風になってきました。

先日、シニア演劇大会に参加してきたのですが、そこで私、久しぶりに他者に怒りました。これが、演劇で言えばオコリンボ再結成後の第一回公演という感じになりました。

とてもとても怒りました。行動に対して。その行動が何を引き起こしたか(具体的にはうちの団体が迷惑を被った)を伝えて、怒りました。でも、暖簾に腕押し、全く響きませんでした。

ここで私が感情的だった場合、思いが届かないことにジレンマを抱き、さらに怒りを増幅させていたと思います。でも、実は全然感情的ではなかったので、届かないことは織り込み済みでした。

後から「あの人全然反省してなかったよー」とたくさんの人に聞きましたが、怒鳴られて、即座に反省する人はあまりいません。その場をしのぐための謝罪の言葉を発するのが精一杯なんだと思います。反省は、おそらくこの先に、私とは関わりのないどこかで、せざるをえない日が彼にやってきます。だって、1時間以内の作品を作れって言われて、全部のスケジュール表まで配られてるのに、45分もオーバーしてきたんだから。その感覚で生きてたら、どこかで頭打たないわけがない。

ただ、彼の頭を打つのは私ではない。

あの時私に怒る必要があったのは、私自身が、改めて、「ルールを守ることが、他者を守ることになる」という事実を自分に突きつける必要があったからだと思います。

あとは、私が、恍惚一座のメンバーの声を代弁する必要もありました。
あそこで変に穏便に済ませたら、誰の怒りも鎮まらないからです。

怒りは、相手を反省させるツールとしてはとても弱いと改めて思いました。
それでも、私はオコリンボを再結成できて、よかったと思いました。

怒りたくても怒れない人もいるし、泣いちゃう人もいるし、穏便にしか済ませられない人もいるから、そういう時は私が怒ればいいと思ったし、怒ることで、私は私をピリッとさせていくのです。

にしても、くだんの彼、その後、女性の楽屋に入ってきて、ずーっと居座っていたそうです。公共の場所も、男性用の楽屋もあるのにですよ。なぜ、女性楽屋に、入り浸ったのか・・・。我らが恍惚一座のメンバーは、衣装の着替えが大変だったそうで、そのデリカシーの無さに呆れました。ありえんわ。